第七回 

 

 

カカシの言葉に、イルカは顔色を変えて突然がたりと立ち上がった。

「待って、逃げないで…!」

咄嗟に腕を掴んで引き止めるカカシに、イルカは口元を手で押さえながら苦しげに眉を寄せて言った。

「ちょっと気持ちが悪いんですが…」

吐きそう、と手の下でうっと呻くイルカに、カカシは慌てて勘定を済ませると、蹲るイルカを肩に担ぎ上げて急いで屋台の外に出た。

立ち上がった瞬間、カカシ自身も急速に酔いが体に回るのが分かった。どうやら酒量が過ぎたようだ。自分らしくもないとカカシは苦笑した。

この人が可愛く誘うから…ついつい…

肩に担いだイルカはグッタリとして、カカシに体重を預けて半分寝たような状態だった。殆ど自分で歩いていない。

「大丈〜夫?吐きたくなったら言ってね、」

カカシが声をかけると、分かっているのかいないのか、イルカがこくこくと小さく頷く。

この人の家分からないし…帰るの俺んちでいいよね…

カカシはズルズルとイルカを引き摺りながら、鼻歌交じりで家路を辿った。

酔いが回った足元がふわふわとする。独特の浮遊感。足元だけでなく何だか心もふわふわと浮かれていた。

なんか気持ちいい…

ご機嫌なカカシが、両手に蓮池の広がる道に差し掛かった時、急に肩に担いだイルカが切迫した声を上げた。

「お、下ろしてください、お、俺…ちょっと、うっぷ、」

「だ、だだ、大丈夫!?

慌ててイルカを肩から下ろすと、イルカはダダッと道の端に駆け寄って、蓮池を前に蹲った。

月下に夢見るように淡い光を散らして揺蕩う蓮の花を、げえげえとイルカが一瞬にして汚していく。

美しいものは汚される運命なのだ、汚れてこそ花だと、女を喰った後の大賀の決まり文句を思い出しながら、カカシはイルカの背中を擦ってやった。

宙ぶらりんになったままの大賀の死の真実が、また気になり始めた。そして蜂巣とイルカとの関係も。

でも今こんな状態の時に聞いても、まともな返事なんて貰える筈ないよね…

カカシはふうと深い溜息を吐いた。

イルカは吐くだけ吐いてしまうと、カカシを放って勝手にふらふらと歩き出した。まだまだ続く蓮池に挟まれた幅の狭い道を、あっちへふらふら、こっちへよろよろと、今にも落っこちてしまいそうだ。

「ちょっと待って…あんた一人じゃ危ないでしょ…」

慌てたように追いかけるカカシの足取りも、かなり怪しいものとなっていた。まだ夜の闇は深いのに、空に懸かる月が傾いて見える。

あれ〜?と思いながらも、カカシは追いついたイルカの背中にどんと抱きついた

「待ってって言ってるでしょ!?

カカシにしてみれば軽く抱きついつもりだが、何しろ酔っていたので、実際は倒れこむようにしてドーンと思い切りタックルをかましたような感じだった。

勿論突然のそんな衝撃に千鳥足のイルカが持ち堪えられるわけもなく、二人はそのまま勢いよく蓮池へとボチャリと落下した。

蓮池は果てしなく泥沼に近い。体に纏わりつく不快な泥の感触に、一気に正気に返ったカカシは急いで水面上へと顔を出した。

イルカも同じだったようで、泥に塗れた顔を水面から覗かせ茫然としている。

イルカの無事(?)な姿にホッとしながら、「大丈夫?」と近付こうとしてカカシはハッとした。片足が泥に嵌まって上手く抜けないのだ。

イルカはそんなカカシに今始めて気付いたかというように、大袈裟に驚いた顔をした。泥塗れで分からないが、大きく見開かれた目から推察するに、多分。

「ど、どうして俺はあんたとこんなところに…そんな事よりも…お、思い出したぞ…!あ、あああ、あんたが任務先で俺にした、虎狼に悖る所業の数々を全部…!」

終わった筈の話を蒸し返されて、カカシは戸惑った。

決してわざとではないが、蓮池に突き落としてしまった事で、またイルカを怒らせてしまったらしい。

「それについては俺も謝ったし…あんたもさっき許してくれたじゃない、」

溜息交じりにカカシがそう言うと、

「そ、そんな事言った覚えは…ない…っ!」

わなわなと体を震わせて、イルカがあんまりな言葉を叫んだ。

「ええー!?そんな…いきなりすっとぼけるなんて、あんたズルイよ…!」

カカシは口を尖らせながらも、水面下では足を泥濘から引き出そうと懸命になっていた。

そんなカカシを残し、イルカはさっさと蓮池から上がると、泥人形のような出で立ちで、びちゃびちゃとその場から逃げ去ってしまった。

ああー…また逃げられた〜よ…なんだってこう、予測しない事が次々起こるかな〜…

遠ざかって行くイルカの後姿を見詰めながら、カカシはハアと深い溜息を吐いた。何だか溜息ばかりだ。

 水面に揺れる蓮の花が、そんなカカシを笑っているようだった。

 

つづく