(5)


「この古ぼけた家、本当にあったんですねえ、」
トントンと軽快な包丁の音を止めて、感慨深く男が呟く。
カカシはその後姿をぼんやりと見詰めていた。左頬に氷嚢を当てている。
受付で男を抱き締めた時、
「なっ、何すんだーーー!?この変態野郎…っ!!!!」
抵抗する男に思い切り拳骨で殴られたのだ。油断していたのでもろに喰らってしまった。カカシの頬は物凄く腫れて熱を持っている上、じんじんと痛みを訴えていた。
だが、その痛みこそがこれが夢ではなく現実なのだとカカシに伝える。

帰って来た…

思わず喜びに顔を綻ばせると、殴られた頬がズキリと痛みカカシは呻き声を上げた。
「…だ、大丈夫ですか?すみません、俺思い切り殴っちゃって…」
湯気の上がる料理の皿を食卓に置きながら、男がばつが悪そうに鼻先を掻く。
「だって口布なんかしてるから、あんただって分からなかったんですよ…銀髪で似てるなあとは思ったけど…まさか夢の中の人物が本当に実在するとは思わないじゃないですか。大体あんたもあんたですよ、いきなり言葉もなく抱きつくなんて…変態と思われても仕方がないと思います、」
喋り続ける男の声をカカシはただじっと聞いていた。
高くもなく低くもなく。穏やかな男の声が耳を通り抜け心に響く。

こんな声をしていたのか…

なんて心地いい声だろうとカカシはうっとりとした。
梢を渡る風に新緑がさわさわと葉擦れの音を立てる様が思い浮かんだ。

もっと聞いていたい…

返事もなく視線を注ぐカカシに、
「あの…俺の話を聞いてますか?カカシさん、」
男がさらりと名前を呼んだ。まるでなんでも無い事の様に。
しかし当のカカシはといえば、名前を呼ばれた事に酷くうろたえた。殴られた頬以上に顔が熱く火照る。
「あ…えと…ちゃ、ちゃんと聞いてるけど…まだ信じられなくて…あんたが、」
言いかけてカカシは一度口を噤んだ。
「あんた」なんて呼び方じゃなくて自分も名前を呼びたい。
だけど妙に照れ臭いのはどうしてなのか。
カカシは早鐘を打つ胸を悟られぬよう、精一杯何気なさを装って、
「イルカが…現実に存在していたなんて。」
その名前を呼んだ。
海野イルカ。それがこの男の名前だった。
イルカは中忍でアカデミーの教師をしており、件の九尾の忌子ナルトの担任だった。
そしてこのイルカこそがカカシが蒔いた種から生えてきた男と同一人物だったのである。
それは不思議な話だった。
イルカはミズキという男からナルトを庇い、瀕死の重傷を負ったのだという。
「俺は何日もの間生死の境を彷徨っていたようで…意識不明の重体だったんです。」
そういえば、男の背中には塞がったばかりの大きな傷跡があったとカカシは思い出していた。
「その間ずっと俺は不思議な夢を見ていました。植物に生まれ変わる夢です、」
イルカは滔々と話を続けた。
気がつくと人里離れた古ぼけた家の庭先に自分は咲いていた。
雨の強い晩にカカシに引っこ抜かれた事もよく覚えているとイルカは言った。
「なんで何も話してくれなかったの?」
恨みがましく呟くカカシに、
「えっ、だってその時は俺、本当に植物だったんですよ。喋れるわけ無いじゃないですか、」
草木が喋るなんて見たことも聞いた事も無いでしょう、とイルカは何故か胸をそらして応えた。
「本当に不思議なんですけど、俺にはあの時カカシさんの言葉がサッパリ分かりませんでした…文字も読めませんでしたしね…意識がすっかり植物だったというか…体も思うように動かなかったし…」
その代わり、とイルカが楽しそうに笑った。
「草木や鳥達の言葉は理解できたんです。山向こうの烏が子供を生んだとか…あんたの名前は雀が教えてくれたんですよ。」
へへへと思い出し笑いをするイルカにカカシも釣られて笑っていた。笑いながら泣きそうになる。
どうしてなのか分からないが、カカシの現実とイルカの夢が繋がっていたのだ。
そんなやり取りをカカシの家に一緒に帰りながら終えたばかりだ。カカシもまた老婆に種を貰った経緯をイルカに話していた。
本当に不思議な話で、誰かに聞かれたら気がふれていると思われても仕方が無い。
だが、カカシもイルカもそれが真実である事を分かっていた。
「俺もまだ信じられませんよ、これが現実なのか…」
カカシの言葉を受けて、イルカもまた頷く。
「確かめてみよっか、」
ふいにカカシが悪戯っぽく笑って、イルカの手を引き寄せる。
「うわ、」
突然の事にバランスを失ったイルカはカカシの腕の中に倒れこむ事になった。その無防備な首筋に鼻先を埋め、カカシは緩やかに微笑む。

ああ、日向のにおいがする…これは変わらないんだな…

そのまま満足げにきゅうっときつく吸い付けば、「こらこら、」と思いがけないほどの馬鹿力でイルカに引き剥がされてしまった。
「俺は腹が減ってるんです、」
イルカは箸を片手にふんと鼻を鳴らす。

そうか、食事を取るのか…。

カカシは新鮮な驚きと共に笑みを深くした。
植物のイルカの儚げな様子と違い、現実のイルカは溌剌として、案外口も悪くて馬鹿力だ。加えて食い意地もはっている。
だけどカカシはそれが堪らなく嬉しい。

だってもういつ枯れるのかと心配しなくていいでしょ。

踏んでも折れないくらいで丁度いいとカカシは思った。それに。
「今度は思い切りできるねえ…」
邪な目でじろじろとイルカを見詰める。
イルカは口一杯にご飯を含みながら、
「なんかいいまひた…?」
もごもごと首を傾げた。その姿さえ愛しい。

うん、確かに欲しいものは手に入れた。

カカシは思う。老婆のくれたあの種は自分に欲しいものを気付かせる為の物だったんじゃないかと。
自分が何かを渇望しているなんて、気付いていなかった。何時の間にかそれは求めても得られないものだと諦めてしまっていた。だが今は自分がずっと渇望していたものに気付いた。気付かされた。

あの老婆は誰だったんだろう…?

イルカと会えた奇跡に感謝しながら、カカシは老婆の事を思っていた。



それからイルカはカカシの家を頻繁に訪れるようになった。
休日は必ず一緒に過ごすが、勿論それくらいでカカシが満足する筈はなかった。
もっとずっと一緒にいたい。
「一緒に暮らそ?」
カカシが甘えた声で擦り寄ると、
「でもこの家、アカデミーから遠いんですよ…」
通勤が大変で、とイルカが難しい顔をしてうーんと腕組をして考え込む。
「それじゃ、この家を引き払って俺がイルカの家に住もうかな…」
カカシの存外真剣な提案に、イルカは困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「嫌なの?」
「そういうわけじゃなく、この縁側…」
イルカは指先で愛しげに板の目をついと撫でて庭先に目を遣った。降り注ぐ日の光の中、庭先の高枝にとまった小鳥が楽しげに囀っている。とても長閑な風景だ。
「この縁側から見る風景が好きなんです…子供の頃住んでた家を思い出すんですよ…」
懐かしむような表情を浮かべるイルカをカカシはぼんやりと見詰めていた。
イルカの身の上については少しだけ聞いている。九尾の惨劇で両親を喪った事も、少しだけ。その時の事についてイルカは多くを語りたがらない。カカシもまた尋ねる気もなかった。イルカが九尾の忌子であるナルトを心から慈しんでいる、その姿を見るだけで既にイルカが過去の悲しみを乗り越えている事が分かった。今更蒸し返すべき問題じゃない。

でも、あんたが辛い時…側にいてあげたかったな…

イルカが一人で悲しみに耐えていた時の長さを思うと、カカシの胸は酷く痛んだ。
今イルカは自分の隣りで穏やかに微笑んでいるというのに。
カカシはイルカの手の上に自分の手を重ね、ギュッと握り締めた。
「なんですか、突然…?」
「好きな人の手を握るのに、理由がいるの?」
たじろぐイルカの手を引いてそっと口付ける。イルカは少し顔を赤くしながら、
「カカシさんは昔俺が会った少年に似てます…」
意外な事を言った。
「十三年前…九尾に殺された両親の骸に縋って泣いていた時…少し離れた場所に銀の髪をした暗部の少年が立ってたんです…」
俺と大して年が違いそうも無いのに、この少年は父ちゃんや母ちゃんと一緒に戦う事ができたのかと羨ましくて…
俺はついて行く事も許されなかったから。
泣きながら見詰めていたら、その少年が不意に身をかがめて、血溜まりの中から何かを掬ったんです…
「何かと思っていたら、少年の手から蝶が…」

羽根を濡らした蝶が、ひらりひらりと空に羽ばたいて。

「…その青い羽根が月明かりの下とても綺麗で…蝶が両親の魂を天へと運んでくれているような気がしたんです…そうしたら少しだけ気が楽になって…」何処か救われたような気持ちになったんです。
イルカの言葉にカカシは茫然とした。思い出していた。十三年前のあの凄惨な夜の事を。
あの時自分は紫紺の羽根の蝶を血溜まりから掬い上げた。
大切な人達が自分の目の前で血に濡れ倒れる様を、ただ見ている事しかできなかった。

誰も、助けられなかった。
だからせめてお前くらいは生き延びて、

震える指先で蝶の羽の血を拭った。刃が掠めたのか、蝶の右の羽根が大きく欠けていた。
こんな状態で飛べるのだろうかと眉を顰めながらも、そっと手を広げた。蝶は弱々しく羽根を震わせながらも、カカシの手の中から飛び立った。その姿に自分も何処か救われていた。

あの時泣きじゃくっていた少年はイルカだったのか…

二親を亡くし肉塊と成り果てた骸に縋っていた少年。
似ているとは思っていたが、まさか本当にイルカだったとは。
カカシは信じられない偶然に驚きながらも、喜びに胸を一杯にした。

あんたが辛い時、俺はちゃんと側にいて慰めを与えてあげられてたんだね…

嬉しかった、物凄く。これからはずっと側にいる。辛い時はべたべたに甘やかしてあげる。
だからあんたもずっと側にいて、俺が凍えてしまわないように温めて。

「イルカが好きだよ…」
微笑んでイルカの顔を覗き込めば、顔を真っ赤にしたイルカが視線を彷徨わせながら、
「俺も…す、き…です、」
口をへの字にして怒った様に言った。
甘さの欠片も無い物言いなのに、カカシの胸は甘く疼く。
堪らずに唇を重ねると、全てが甘く溶けてしまった。




庭先に埋めた枯れた花から出た芽はすくすくと成長し、黄色の美しい花を咲かせていた。
「なんていう花ですかねえ?」
植物辞典で調べてみましょうかとイルカが部屋の奥に引っ込むと、青い羽根をした蝶がひらひらと飛んできてその花先にとまった。

今時分、珍しいな…

カカシがそう思いながら近寄ってよく見ると、その蝶の右の羽根が大きく欠けていた。
まるであの時の蝶の様に。
カカシは吃驚してジッとその羽根を見詰めていたが、やがて緩く首を横に振った。
「まさか、ね…」
呟くカカシの背後で、
「カカシさん、お茶もいれてきましたけど、どうですか?」
イルカの呼ぶ声がして、「は〜い、」とカカシが身を翻す。

瞬間花から舞い上がった蝶の羽根が、ひらりひらりと何処か楽しげに微笑んでいるようだった。


終わり