第九回

「…どうして俺を助けて、くれたんですか…?」
戸惑うイルカにカカシはピシャリと言った。
「勘違いしないで、」
冷ややかな声で。
「別にあんたを助けたわけじゃないから。」
そのまま乱暴に手を振り解かれて、イルカは目を瞬かせた。どうしてよいか分からず、暫し呆然と立ち尽くす。
目の前の男の考えている事が分からなかった。

確かに…この人が俺を助ける謂れも無い…だけど、だったらどうして…

種明かしはすぐだった。銀髪の男は鬱陶しそうに前髪を掻き上げながら言った。
「あんたを助けたわけじゃない…俺はあいつを気に入ったんでね、」
思わせぶりな台詞に首を傾げるイルカに、男は三日月に目を細め笑顔を作る。
一見穏やかなその表情は、しかし何処か歪で禍々しく、イルカは思わず背筋を震わせた。
男はイルカの内心の怯えを看破した様に、くつくつと嘲るような含み笑いをする。
「ねえ、そんなに怖がらないでよ。俺はあんたを気に入らないけど上手くやっていこうって言ってるんです…三代目から聞いてませんか?」
何をとイルカが口にするよりも早く男は言った。
「俺がナルトを担当する上忍師なんですよ…」
イルカは驚愕に目を大きく見開いた。

そんな、まさか…

男は震えるイルカの手を取って、
「上忍師はたけカカシです…よろしく、イルカせんせ?」

ナルトの事は任せてね、

硬直するイルカの耳元で猫撫で声で囁いた。




ズルズルと勢いよく一楽のラーメンを啜るナルトをイルカはぼんやりと見詰めていた。
『ナルトの事は任せてね、』
カカシの言葉がぐるぐると頭の中で回る。
上忍はたけカカシ。『写輪眼のカカシ』と呼ばれるその男は木の葉の里は疎か、近隣諸国にまでその名を轟かせている凄腕の忍だ。そんな人物がナルトを気に入ったという。任せてくれと。普通だったらこれ以上頼もしい言葉はない。
しかしイルカはその言葉を素直に受け止める事ができなかった。

俺の所為で…ナルトが正当な評価を得られなかったら…

そう考えてイルカは思わず唇を噛み締めた。そんな事ある筈無いとすぐに打ち消してみても、拭えぬ不安がイルカの心を侵食する。自分がカカシの憎しみの業火に焼き尽くされるのは構わない。その導火線に火をつけたのは自分だ。
だがナルトは関係ない。
それなのに。そう思うのに。

その小さな体に今まさに火の粉が降りかかろうとしているのではないか。

その懸念が消えない。暗澹たる思いに沈鬱な表情を浮かべるイルカに、
「どうしたんだってばよ?イルカ先生、全然食ってねえじゃねえか、」
腹でも痛えのか?とナルトが心配そうに様子を窺う。その存外不安そうな瞳にイルカはハッと我に返った。

何ナルトに心配掛けてんだ?しかりしろ、情けねえ…!

強引に笑顔を浮かべると、わしゃわしゃとナルトの金髪を掻き混ぜる。
「いや、お前ももう下忍かと思うと、なんだかしんみりしちまってな…試験、頑張れよ、ナルト!」
合格したらまたラーメンを奢ってやるからな、とイルカが言うと、ナルトは表情をころっと変えた。
「いやったーーーー!!!!なあなあ、そん時はおかわりしていい?味噌チャーシュー大盛り、餃子つきで!約束だってばよ!」
「…調子に乗りやがって、」
ぷっと吹き出しながらもイルカは約束した。
「合格したら、何でも好きなもんを好きなだけ食わせてやるよ、」
途端にナルトの顔がパアッと輝き、その口の端から早くも涎がこぼれる。
「俺、頑張るってばよーーーー!!!!」
一楽の親父がそのやり取りを愉快そうに聞いている。ナルトに冷たい里の中で、案外当たりの柔かい親父をイルカは気に入っていた。ナルトも多分気付いている。他の場所では食事どころか摘み出されるのがオチだ。だから二人が食事をするというと、いつも一楽だ。

はやく他の場所でも飯が食えるようになれるといいな、はやく…皆がお前を認めてくれるように…

折角微笑んだ顔がまた脳裏に浮ぶカカシの姿に俄かに曇る。

ナルトの為にも、この不安を放って置く訳には行かない…俺はカカシ先生ときちんと話をしなくては…

イルカは心を決めて、のびきったラーメンに漸く手をつけた。




カカシは過去の任務報告書の保管庫にいた。閉架式の保管庫に権力を笠に着て半ば強引に入り込んだ。
後で火影からお小言を食らうだろうが、そんな些細な事はどうでもよかった。

大体、閲覧を申請しているうちに肝心の書類を隠されちゃいそうだし…

カカシは十年前の大賀の任務に就いてもう一度調べ直していた。殉職した際の記録だけでなく数年遡った任務報告にも目を通す。それだけでなく、蜂巣の任務についても十年前の事件を中心に同様に調べ直した。今更カカシがそんな事に注力するのも理由がある。
数日前、受付でイルカが上忍に絡まれている場面に出くわした。
イルカが自分が担当する狐憑きの子供に入れ込んでいる事は、火影から受け取った忌子の身辺報告書で既に知っていた。
馬鹿な人だと思った。

自分が損をすると知っていて、一体どうして忌子に構うのか。
忌子がそれを埋め合わせるだけの何かを、与えてくれるわけでも無いだろうに。

上忍に囲まれ貶められるイルカを、カカシは呆れたように見詰めた。
十年の月日が経っているというのに、イルカはまた十年前と同じように嫌がらせを受けている。カカシの目の前で。

折角大賀殺しのほとぼりが冷めるまで長期任務に出てたのに、これじゃ意味無いねえ…?
忌子を庇ったりなんかするから…

何気なくそう考えて、カカシはハッとした。
頭の中で己の勘とも言えるべきものが何かを告げていた。
『忌子を庇ったりなんかするから…』
その言葉に確かに今、意識の底で何かに繋がったような気がする。何か大切な事がわかったような気が。
だがそれが何なのかカカシには分からなかった。

一体なんだったんだろう…重要な事のような気がするんだけど…

苛々と頭を掻き混ぜるカカシの前で、臭い臭いと囃し立てる上忍が花瓶の水をイルカの頭に掛ける。
その光景を目にした瞬間、カッと頭に血が上り、冷静に物事を考えられなくなった。
十年前の陵辱の場でもそうだったように。許せなかった。イルカを蔑む輩が。どうしてなのか許せない。
あの時と違い、イルカは毅然として助けを求めてなぞいないというのに。
カカシは受付所に飛び込むと殺気で上忍どもの蛮行を圧し、イルカをその場から連れ出していた。
そんな自分を信じられなかった。助けるつもりなんてなかった。なかったのに。

全く…なんでいつも俺は…

「くそ…っ、」
思い出して舌打ちしながら、今はイルカの事に気を取られている場合ではないと、カカシはまた新たな台帳を取り出しページを捲った。

そう、今は蜂巣の事が先だ。

カカシがイルカを連れ出した際、狐憑きの事で絡んでいた上忍は五人。その中に蜂巣の姿があった。
殺気に縫いとめられ、皆が何処か怯えた表情を浮かべる中で。
蜂巣だけが、ほっと。
イルカを連れ出すカカシの姿に安堵したような表情を浮かべ、溜息をついた。
カカシはそれを見逃さなかった。
イルカを憎んでいる筈の蜂巣が何故あんな顔を。まるで連れ出してくれた事を喜ぶように。

おかしい…何かがある。

そもそも大賀が死んだ任務に駆けつけたのはこの二人だったのだ。

蜂巣とイルカとの間には何か俺の知らない事が…憎しみだけで無い何かがある…

その事にカカシは何処か苛立ちを感じていた。

続く