第八回

正直、慰霊碑の前にその姿を見つけた時、カカシは然程驚きを感じなかった。
大賀の死が風化した今、ひょっとしたら戻って来ているかもしれないと思っていた。
かつて待ち続けたその姿を目にしても、カカシには何の感慨も湧かなかった。
ただ少し鼻白んだだけだ。

今更手を合わせて、どうするっていうの…?

その姿を求めていたのは、ずっと以前の事だ。既に果たされなかった約束の日から十年余りの歳月が過ぎていた。
イルカが里を離れたのは、暴行を受けたイルカの身を案じた火影の配慮だとは聞いていた。聞いてはいたが、それに納得しているわけではなかった。

逃げたんだ…あんたは俺から…大賀の死から逃げた…

どう言い繕ったところで、約束を違えた事実には変わりが無い。許したいというカカシの気持ちに砂を掻け、己の罪の在り処を有耶無耶にして、イルカは逃げたのだ。どうしてその卑怯を許す事ができようか。
約束の日の朝の事をカカシは今でも鮮明に思い出す。忘れた事なんてなかった。

俺は…怪我をしていた…

長引きそうな任務を期日通り四日で終る為に、相当無茶をした代償だった。全てはイルカとの約束を守る為に。
明けそうになる薄墨色の空を見上げながら、カカシは必死で走った。脇腹から流れ出る血は激痛と共に意識を遠退かせていたというのに。

なんであんなに必死だったんだろうねえ…

思い出すと滑稽な位だ。
漸く辿り着いた慰霊碑の前で、山の端から僅かに顔を出したばかりの太陽を確認し、ほっと息をついた。間に合ったのだと、安堵して。カカシはイルカを待ち続けた。深い傷に荒い息をつきながらも、頂点を極めた太陽が再び月の前衛にその玉座を明け渡すまで。
信じていた。絶対に来ると。
どんどん遠退いて行く日の光に心細くなりながらも、ずっと。

あんたはもう来ないのだと漸く気付いた時の、俺の苦しみを…怒りを…あんたは知らないだろう。

それは絶望にも似た感情だった。それはやがてイルカへの激しい憎悪に形を変えた。
火影から事情を聞いてもその思いは変わらなかった。

本当にここへ来る気なら…どうとでもできたはずだ…
あんたはそれをしなかった…始めから約束を守る気がなかったんだ…

イルカにとっては所詮その程度の事だったのだ。

だが俺は違う…

カカシは唇を噛み、慰霊碑の前の姿をジッと見詰めた。
黒い括り髪がゆらゆらと揺れている。十年前もずっとその後姿を見ていた。毎朝慰霊碑の前で熱心に手を合わせるイルカの姿を。あの時イルカを許したいと思っていた自分はもういない。
心に開いた風穴は広がるばかりで、十年の歳月でさえもそれを埋めてはくれない。

俺はあんたを許せない…許す事ができない…

慰霊碑の前の姿にカカシは憤怒を滾らせた。その気配に気付いたイルカがゆっくりとカカシの方へと振り向く。
カカシの射抜くような鋭い視線を黒い双眸がやんわりと受け止めた。
イルカは揺らめく事の無い澄んだ目をしていた。まるで罪の存在さえ知らないかのように、無垢なる魂を気取って。
そしてさも申し訳なさそうに言った。
「約束を守れなくて…すみません。」
しゃあしゃあと謝罪の言葉を、いとも簡単に。

何を今更。どの面下げてそんな事を。

瞬間頭が沸騰した。制御のできない怒りにカカシの体が勝手に動く。
パアンと渇いた音がして、目の前の地面に頬を赤くしたイルカが転がる。それを見て始めて、自分がイルカを打ったのだとカカシは漸く気付いた。余程力をこめて叩いたのか手のひらがじんじんと痛む。イルカは口の中が切れたのか、唇の端に血が滲んでいた。その赤い色に暗い愉悦と後悔とを感じた。

こんな事して何になる…?

何処か虚しくもあるのに、もう一度手を振り上げてしまいそうになる。カカシはそれを必死に押し止めた。こんな方法では手緩い。

この人に何かを求めても無駄だ…思い知らせてやるしかないんだ…この人の罪を…卑怯さを…もっと骨に刻むように…

詰ったところで意味をなさないと思いながらも、カカシは糾弾の叫びを上げていた。
「俺はあんたを許さない…!」
一度口を吐いて出ると、もう、止まらなかった。
「皆が忘れてしまっても…俺は大賀の死を忘れない…っ、あんたの罪を忘れない…!」
埋め合わせるものの無い喪失感は、年月を重ねる毎に一層カカシを苛んだ。

それも全て、あんたが…!

「絶対に、許さない…!」
心に開いた風穴が唸りをあげていた。
イルカはそれを黙って聞いていた。言い訳の言葉も反論の言葉も無い。
イルカはただほうっと息を吐き出しただけだ。カカシが与える罰を待ち望むかのように、何処か安堵の表情を浮かべて。
それはかつてカカシの背中に身を預けた時の溜息にも似て。カカシの心を酷く掻き乱した。
よく分からない感情が胸に湧きあがる。

怖いな、

カカシは狼狽しながら思った。

この感情がなんなのか、考えるのが怖い。

堪らない気持ちになって、カカシはその場を駆け出していた。
イルカの顔をこれ以上見ていたくなかった。見てはいけないと、思った。

もう許さないと決めたのだから。







「イルカ先生、今度やっと下忍昇格試験を受けるんだってばよ、」
アカデミーの受付までやって来た元・教え子ナルトが、こっそりとイルカに耳打ちして、「すげえだろ?」と嬉しそうにニシシと笑う。その屈託の無い笑顔を見ていると、イルカも堪らなく嬉しくなった。
「そうか、頑張れよ。」
問題児だった教え子の、今は頼もしいその姿に破顔して、くしゃくしゃと金髪の頭をかき回してやると、ナルトは照れ臭そうな顔をした。
「あんまり子ども扱いするなよな、」
少し憮然としたポーズをとりながら、じゃあなイルカ先生、と身を翻す。ナルトは些細な事までイルカに報告をしに来る。他に報告をするところが無いからだと分かっているから、イルカはその頻繁な訪問に何もいえない。

俺のところに顔を出さなくようになった時、ナルトは本当の意味で歩き出すのだ。それもそう遠い日ではないと信じたい。

イルカはその輝く金色の残像を目線で追いながら、
「転ぶなよ!」
思わず教師然と叫んでいた。
その大声に、どかどかと入れ違いで入って来た数名の上忍達が、「うるせえなあ、」と顔を顰める。
「おい、なんだかこの部屋、動物臭くねえか?」
その中の一人が意地の悪い声でわざとらしく言った。
「ああ、本当だ。狐の臭いがするなあ、」
上忍が二人、イルカに近付き臭いを嗅ぐ仕草をすると、くせえくせえと大袈裟に鼻先を摘まんで見せる。

またか…

イルカは小さく嘆息した。
この程度の嫌がらせは日常茶飯事で、もう慣れてしまっていた。先ほどイルカの元にやって来た教え子ナルトは、里を壊滅に追い込んだ九尾の狐を腹に封印されている。それだけの理由でナルトは忌むべき存在として里中から爪弾きにされ、そんなナルトに目を掛けるイルカもまた快く思われていなかった。

だが、別にどうということは無い。

イルカは思う。ナルトが受けている理不尽な差別に比べたら、この程度はどうという事は無い。
建前の正義を翳しているわけではない。ただ、皆に認められようと努力するナルトの姿が愛おしかった。それだけだ。
その思いは力によってへし折られるようなものじゃない。
黙っているイルカに調子に乗った上忍連中が、
「お前ちゃんと風呂はいってんのか?」
側にあった花瓶を手にとって、その水をこれ見よがしにイルカの頭にどぷどぷとかける。滴り落ちる水滴が机や床をも濡らしていく。だがイルカは何も言わなかった。声を荒げたり、狼狽したり。反応を返せば余計に煽るだけだ。付け込む隙を与えてはいけないとイルカは経験から重々承知していた。
隣の席の同僚は青褪めた顔をしてイルカの様子を窺っていた。その表情に心配の色が浮んでいるが、上忍相手に何も言うことができないようだった。階層差の厳しい忍社会では当たり前の事だ。

心配すんな、

イルカは目配せで同僚に合図して、自分を囲む上忍に向き直った。
イルカに絡む性質の悪い上忍の数は五人。
「任務報告書の提出ですか?御用が無いなら、他の方の迷惑になりますので…」
静かに言いかけた言葉を、
「迷惑なのはお前だろうが、狐つきに構いやがって…!」
ばんと机を乱暴に叩いて上忍の一人が遮る。
「お前も何か言ってやれよ、」
声をかけられた上忍は、ビクリと体を震わせた。
鳶色の瞳が一瞬辛そうに細められ、宙を彷徨う。
それはイルカの良く知っている人物だった。かつて親友だった男。五人の上忍のうちの一人が蜂巣だった。
蜂巣はぎこちなく口の端を吊り上げると、
「あんまり構うなよ、臭いが移るぜ…?」
微かに震える声でそう言った。何処か躊躇いを含むその声音に、

馬鹿野郎、もっと怒鳴りつけたらどうなんだ…!?不審に思われるだろうが…

イルカが苛々と心の中で心配していると突然。凄まじい殺気が受付所を覆った。瞬時に凍りついた空気に居合わせた人々の動きがピタリと止まる。少しでも動いたら心臓が潰されてしまいそうな感覚に、皆の額から汗の滴が伝い落ちた。

一体何が起こったのか。

よく状況が飲み込めないまま動きを止める人々の間を潜り抜けて、銀髪の長身痩躯がイルカの前に姿を現す。

え…?

男は殺気で他を威圧しながら、茫然とするイルカの腕を掴んだ。そのまま引き摺るようにして受付を後にする。
強引で、抗う術も無い。
イルカの頭の中は混乱を極めていた。

この人…俺を助けてくれた…?

慰霊碑の前でイルカを憎しみの瞳で打ちつけた男が自分を。あり得ないとイルカは思った。一体どういうつもりなのだろうか。
「ちょ、ちょっと待って下さい…あの…」
受付から大分離れた渡り廊下で、薄らいだ殺気に漸くイルカは声を上げた。

続く