第七回

その気配をイルカは背中にずっと感じていた。
十年あまり前と同じように。

…帰って来ていたのか…

朝靄に烟る山の稜線を遠くに見詰めて、イルカは再び視線を目の前の慰霊碑に戻した。
背後の気配はそのままにして、そっと目を閉じ手を合わせる。
里に帰って来てから欠かした事は無い朝の日課だ。
勿論かつて自分が殺めた大賀の死を悼む気持ちもある。
だがイルカが毎朝慰霊碑へ向かう最大の理由は他にあった。
十年前果たせなかった約束。
『慰霊碑の前で待っていて』
銀髪の男の請うような声が今でも耳に残っている。
約束を破るつもりなんてなかった。
しかし暴行を受けた自分の身を案じ、便宜を図ってくれた里長の厚意を無碍にする事は出来なかった。すぐに出立するようにと、用意された長期任務に期限はなかった。
「ほとぼりが冷める時が来たらお前を呼び戻そう。それまではお前自身も誰にも連絡を取ってはならぬ。何処から足がつくとも知れぬ故、酷とは思うが致し方ない。」
里を出る事も何処へ行くのかも、誰にも知らせる事はできなかった。
蜂巣にさえも。
それなのに名前も知らぬ暗部の男に、如何に伝えることができようか。
言い訳は幾らでもできる。
しかし、あの時。すぐに出立するようにと火影に言われた時。
何処かほっとしていたのもまた確かだ。

あの男と対峙しなくて済む…

卑怯にもそんな思いが頭を掠めた。
自分で約束をしておいて、何処か恐れていた。
『大賀が死んだ時の事を詳しく聞かせて…お願い、』
真実を話すつもりは、なかった。蜂巣と自分とで作り上げた嘘をそれらしく話して聞かせるつもりだった。
それでこの人の苦しみが少しでも和らげられるなら。
そんな驕りにも似た気持ちで。

だが、俺にあの男を欺く事ができるのだろうか。

全てを見抜くような鋭い眼差しを思い出して、イルカは不安になった。
だが何よりもあの男を欺く事自体に躊躇いを感じた。
暗部の男はなんとまっすぐに自分と向き合うのだろうとイルカは思う。
激しく滾る憎悪を隠そうともせず、憎しみは憎しみのままにこの身にぶつけ。
大切なものを喪った苦しみから解放されたいと、殺した張本人である自分に全てを知りたいと懇願する。真摯な瞳をして。
自分の心を少しも隠そうとはしない。

それに比べ俺は…

蓮池の前でそっと指先で胸の傷に触れられた時の事が忘れられなかった。
その指先が自分の胸の奥に隠された嘘を捜しているような気がして。優しく触れる指先が心に痛かった。
絶対にこの唇が真実を語る事はない。
そう固く決意したというのに、

この人に嘘をつきたくない…

そんな気持ちが胸を過ぎった。それは一瞬の事だったが、イルカを狼狽させるには十分だった。

蜂巣と約束したのに、俺は今更何を…第一真実を知る事がこの男の為になるかどうか…

唯一の肉親である蜂巣が受けた心の傷は計り知れない。
大賀に肉親の如き扱いを受けていたというこの男も、今以上に苦しみを背負い込む事になるだろう事は容易に想像がついた。

やはり真実は隠蔽するべきだ…

そう思うのに、自信がなかった。慰霊碑の前で男と対峙した時、平気な顔をして嘘をつけるかどうか。
だから火影の命令に一も二もなく頷き、早々に里を出たのだ。
仕方がなかったのだと、誰にとも言えない言い訳をしながら。

どんなに言い訳してみたところで、約束を破った事には変わりが無いのに…。

イルカは閉じていた目を開け、慰霊碑に刻まれた大賀の名前を見詰めた。
里に戻ってから三年の月日が経っていた。
戻ってからすぐに男の姿を捜した。銀髪の、暗部の男の姿を。
だが名前も知らぬ暗部の男の行方を捜すのは、イルカには容易ではない事だった。
頼みの綱の火影に尋ねてみても、
「大賀に関する事は、もう全て忘れるがよい、」
渋面して取り合ってはくれなかった。
だからイルカは毎朝慰霊碑へ通った。九年前の約束を守る為に。
男が現れる筈無いと思いながらも、何処か縋るような気持ちで。

ずっと…謝りたいと思っていた…

イルカは立ち上がり、ゆっくりと後ろを振り返った。
立ち込める朝靄に視界を白く塞ぐ。その白き薄絹を剥ぐ様にして銀色の影が姿を現した。
男は暗部の装束ではなく、忍服を身に纏っていた。口布と斜め掛けにされた額当てに隠されて、その表情は窺い知れないというのに、唯一晒された右目がいつか見た青白い雷を宿し、その凄まじい憤怒を伝えていた。
それなのにイルカは知らず微笑んでいた。

憎まれても蔑まれてもいい。

またこうして会えた事に喜びを感じていた。
「約束を守れなくて…すみません。」

九年間、ずっと胸の内で繰り返していた言葉。

それを伝える事ができた安堵に、イルカは思わずほうと息を吐き出した。
その瞬間。
飛んで来た平手に強かに頬を打ちつけられていた。

続く