第十五回(最終回)

この人は今一体何といったのか。
イルカは信じられない言葉に眩暈を覚えながら、蜂巣の肩越しにその言葉の主を見上げた。
その瞬間イルカはドキリと胸を跳ねさせた。カカシはイルカを見詰めていた。目の前に立ちはだかる蜂巣の姿など見えていないように、イルカだけを見詰めていた。イルカの頬がカアッと赤く熱を持つ。

何て目で俺を見るのだろう、

思いがけずかちあった視線にイルカはうろたえた。だが、どうしてなのか目を逸らす事ができない。
切ない瞳をしていた。何処か息苦しさを憶える、そんな瞳をして「この人が欲しい」などと。
本当ならば幸福感に満ちている筈の言葉の、何と苦々しい事か。

俺が…この人を苦しめていたなんて…

今更ながらイルカはそれを痛切に感じて、胸が引き絞られる思いがした。
自分だけが傷付いているような気がしていた。自ら「何でもする」と言っておきながら、性欲処理を強要するカカシに傷付いていた。自分を陵辱しようとした輩と同じように、カカシに蔑まれているようで。カカシに抱かれ、快楽に身悶えながら腰を揺する自分がとても惨めだった。心の通わない行為に何時の間にか恍惚としている。それがどれだけ虚しい事か知っていながら。

優しく辿る指先を、嬉しいと感じた…
いつも自分を陰湿な空気から連れ出してくれた、この手を失くしたくないと…その熱を貪欲に求めた…

行為の最中に絡む指先。たったそれだけのものが欲しくて。欲しくて欲しくて。そんな紛い物のちっぽけな幸せでも、イルカの心を満たすには十分だった。そこには何も無いのに。カカシの心には何も無いのに。どうして優しく抱くんだと恨みに思った。乱暴にしてくれたなら、こんな見当違いな思いを抱かずに済んだのにと。惨めなのに幸せで。幸せなのに心が痛くて。

俺だけが苦しいのかと思っていた…

だが違った。カカシも同じだったのだ。

真実よりも俺が欲しいと言った…

大賀の死について煩悶するカカシの心を知りながら、それを隠蔽する卑怯さを詰るでもなく。大賀を殺した罪の所在が不確かなまま、自分を欲しいと言った。怨讐を越えたカカシの強い思いに、イルカの心はこれ以上も無いほど震えていた。何処かで信じていてくれるのだとイルカは思った。誰もが大賀殺しの件でイルカの罪を疑わない中、言葉もないのに、カカシだけが信じてくれているのだ。今ならばカカシがどうして自分に真実を強請ったか分かる。

伝えたい…この人に…

例え真実がこの人に残酷を齎そうとも。カカシが自分を確かな手で連れ出してくれたように、今度は自分が手を伸ばし悲しみから引き上げる。なんて傲慢。だけど絶対にそうしてみせる。だから。

この人だけには真実を知って貰いたい…

カカシが信じてくれたように、自分も信頼を返したい。衝動に気持ちを昂らせるイルカの前で、
「よくもぬけぬけとそんな事を…!」
激昂した蜂巣がカカシの胸倉をぐいと乱暴に掴んだ。
「反吐が出る…」
べっと蜂巣が吐き捨てた唾がびちゃりとカカシの顔を汚す。
カカシはそれを拭いもせずに、
「この人を踏み台にした下衆に言われたくないね、」
薄く笑って、同じように蜂巣に向かって唾を吐いた。それは禁句だった。顔色を変えた蜂巣が拳を上げる。
「あんたに俺の何が分かる…!?」
「蜂巣…!やめろ…」
悲痛な叫びと共に振り下ろされそうになった拳に、イルカが必死に追い縋る。
「離せイルカ…!」
「あ…っ、」
怒りに湧き立つ蜂巣に思いがけないほど凄まじい力で振り解かれて、イルカはバランスを失い、後方に勢いよく弾き飛ばされた。それは一瞬の出来事だった。窓ガラスに叩きつけられる形になったイルカの背中で、ガシャンと派手な音を立てて窓ガラスが砕け散った。激痛にイルカの視界に火花が散った。破片が何処か神経を分断したのか、体が痺れたように動かない。ずるりとその場に崩れるように腰を落としながら、

不味い事になった…

イルカは焦りを感じていた。だが、どうする事もできない。ぼんやりする意識の中で、イルカ、と叫ぶ声が聞こえた。一番に自分を抱き上げた手が、そっと頬に触れる。よく知った、温かい指先。その感触に酷く安堵しながら、イルカは重くなる目蓋を閉じた。





「この、大馬鹿者が!」
病院で目覚めたイルカを待っていたのは、三代目火影の大目玉だった。
破片の刺さったイルカを無闇に動かす事は得策で無いと考えたカカシと蜂巣が救急班を呼んだ所為で、この騒ぎは火影の耳にも届く事となった。情交の跡もそのままに硝子の破片で大怪我を負ったイルカの姿に、カカシも蜂巣も申し開きの仕様も無く、火影に全てを告白せざるをえなかったようだ。勿論先んじてカカシと蜂巣はこってりと絞られたらしい。
「あんまり大声で怒鳴るのは勘弁してください…」
イルカが苦笑いを零せば、
「傷に障るか?」
心配そうに火影が眉を寄せる。
「いや…火影様の血圧が心配です…」
軽口を叩くイルカに、火影は一瞬苦虫を噛み潰したように渋面した。
「お前はいつもそうやって、平気な顔をして全てを自分で抱え込もうとする…だからこちらもつい騙されてしまうんじゃ…」
十年前もそうじゃった、と呟き火影が遠くを見詰める。
その言葉に一層項垂れる蜂巣が、イルカの傍らに付き添っていた。少し離れた場所ではカカシが壁に背凭れて足元を見ている。

こんな場所で火影様は何を言い出すんだ…?

十年前の事に触れられてイルカは狼狽した。カカシに真実を話したい気持ちはあるが、これはイルカだけの話ではない。イルカの心の動揺を察したように、火影がイルカの手を力強く握った。
「真実を隠そうとすれば必ず歪みが生まれる…分かっていて頷いた儂にも咎がある…蜂巣はお前だけに全てを背負わせる重責に、これ以上耐えられんそうじゃ…イルカよ、お前はどうする?お前達が真実を明らかにしたいというなら、儂はそれに従おうぞ。良かれと思って計らった事でお前達が辛い思いをしているなら、それは儂の本意ではない…」
火影の慈愛に満ちた眼差しがイルカの胸を突く。また余計な心配をかけてしまったとイルカは自分の軽率を責めた。

甘えてるな俺は…

これ以上余計な心配を掛けたくないのに、火影の自分を気遣う言葉に目頭が熱くなる。イルカは眼窩の奥から競りあがってくるものをぐっと堪えて、笑顔で言った。
「蜂巣と、二人きりにしてください。」
その言葉に蜂巣が弾かれたように顔を上げ、反対にカカシが背中を丸める。火影は頷くとカカシの肩に手を掛け、病室から出るように促した。一瞬躊躇いがちに振り返ったカカシに、イルカは満面の笑顔で返した。唯一晒された瞳が驚いたように大きく見開き茫然とする。その腕を火影が無理矢理引っ張るようにして、二人は病室を後にした。
パタンと扉の閉められた音と共に、蜂巣が口を開いた。
「イルカ…俺は真実を明かして忍を辞める。これ以上耐えられない…お前にだけ、こんな辛い思いをさせるのは…」
ぎゅうとイルカの手を握り締め、蜂巣が真摯な眼差しでイルカを見詰める。
「十年前、俺は忍の道が閉ざされるのは嫌だと喚いた…それはお前と離れたくなかったからだ…お前と…同じ道を生きたかったから…だけどその言葉が俺達をこんなにも隔ててしまうとは思わなかった…俺は悔いた…だけどお前に苦痛を強いておいて、どの面下げて告白できるのかと躊躇して…俺は…本当は…っ、」
「蜂巣、」
イルカは震える蜂巣の背中を撫でた。十年前、そうしてやったように。
そして同じように微笑んで言う。
「大丈夫だよ、蜂巣。」
心の中で侘びながら。
「俺の事なら心配しなくても大丈夫。俺には…カカシさんがいてくれるから、それだけで、」

辛い事なんて無いんだ。

掴まれた手に痛いほど力が込められる。残酷な事を言葉にしている自覚はあった。蜂巣だとて、何も好きでイルカに辛く当たっていた訳ではない。イルカに辛く当たれば当たるほど、蜂巣もまた傷付いている事が分かった。途中弱音を吐く蜂巣を叱咤したのはイルカだ。

忍を続けたいんだろう?なら…我慢しろ。俺なら平気だ。

イルカに対する憎しみも露わに、詰る輩に混じり、侮蔑の唾を吐きかけろと。この真実を隠蔽する為の茶番を続けるように諭した。親友を守っているつもりだった。友情を越えた思いを蜂巣が抱いている事にも気付けずに。

一番辛かったのは蜂巣だ…

それが分かるのに、自分は応える事ができない。
「俺の為に忍を辞めると言うなら…そんな事しなくていいんだ…ただ、カカシさんにだけは真実を明かしたい…許してくれるか?蜂巣…」
蜂巣は暫しの沈黙の後、

イルカの好きにするといい、

小さく呟き掴んでいた手を離した。その時一瞬手の甲を掠めた柔かい感触に、イルカは気付かない振りをした。
「ありがとう、蜂巣」と笑顔で返せたのは、人生最大の奇跡だとイルカは思った。





傷が癒えてきた頃、イルカは慰霊碑へとカカシを誘った。誘うのは簡単だった。何故ならイルカの枕元にカカシが毎日張り付いていたからだ。そこに蜂巣の姿は無かった。二人きりで話をして以来、蜂巣は一度も病室を訪れなかった。後日火影に蜂巣が長期任務についた事を知らされ、イルカは驚くと同時に罪悪感に苛まれた。暫くの間心の折り合いがつかず、傍らのカカシに声を掛ける事もできなかった。カカシもまた黙ったままだった。揺れるイルカの心が定まるのを待つように、時折そっとその指先で頬を撫でるだけで、何も言わない。聞きたいことは沢山あるだろうに。そんなカカシの態度をありがたいと素直に思った。
そして漸く気持ちが定まった時、イルカは言ったのだ。
「十年前の約束を、果たさせてください。」と。
カカシは黙って頷いた。
そして今、二人で慰霊碑へと足を進めていた。早朝の道は他に人影もなく、とても静かだ。無言のまま歩く二人の間を晩夏の風が吹き抜ける。遠くで早起きの日暮がカナカナカナと鳴く声が聞こえた。

何時の間にか、夏が過ぎようとしているな…

何処か淋しさを覚えながらイルカは蓮池の前で足を止めた。朝陽の中季節の終わりを迎えた白蓮の花が、最後を謳歌するように美しく咲いていた。すぐに散る運命に迷い無い姿で凛と咲く。開いた花びらの真ん中で金色に輝く花弁は一欠片の翳りもなく、何と潔い事か。

綺麗だな、

イルカは小さく微笑んだ。不思議だと思った。足元に蕩揺たう白蓮の花はいつも自分の心を映しているようだ。同じ姿を目にしながらも、いつも感じ方が違う。往く夏を惜しむ気持ちが蜂巣との別離を思わせながらも、イルカにもう迷いはなかった。
「十年前、大賀上忍を殺したのは確かに俺です。」
突然のイルカの言葉にカカシは息を呑み振り返る。だが遮る言葉は無い。イルカはそのまま話を続けた。
「蜂巣と俺はその日簡単な文書の運搬任務についていました…危なげの無い任務の筈でした。…空に昇る、救援を求める緊急の狼煙を見るまでは…」
先に気付いたのは蜂巣だった。兄の大賀の任務が近くであると知っていた蜂巣は血相を変えた。
「急ぐぞイルカ…!」
駆けつけた自分達を待ち受けていたのは、想像を絶する光景だった。
上忍の中でも誉れの高い大賀が、同じ里の仲間にクナイを突き立てていた。大賀に喉笛を掻き切られた木の葉の忍が、断末魔の喘ぎを漏らす事さえ叶わず、空を掴むようにして力なく崩れ落ちる様を、茫然と見詰めていた。とても信じられなかった。
大賀は一瞬大きく目を見開いて、
「どうしてこんなところに…もう少しだったのに…くそっ、」
悪態をつきながらもクナイを構えた。クナイを向けられても蜂巣はまだ茫然としていた。
「嘘だ…っ、嘘だ嘘だ嘘だ…っ兄さんがこんな事…嘘だ…っ」
肉親で無い分だけ、イルカは正気に返るのが早かった。
「蜂巣…っ!」
大賀のクナイが蜂巣の喉笛を切り裂く前に、夢中で引き抜いた脇差しの刃が大賀の急所を貫いていた。
「今思えば…大賀上忍も実の弟を前に非情になりきれなかったんです…だから躊躇いに隙が生じた…そうでなければ俺如きに殺られる訳が無い…いえ、ひょっとすると…わざと避けなかったのかもしれません…」
大賀は今わの際にイルカに向かって頼んだ。蜂巣は酷く取り乱していたので、イルカに頼むしかなかったのだ。

図々しいとは分かっている…だが後生だから、このクナイを木の葉の狭斜「泡沫」の女郎、浮舟に渡してくれ…

強い力でイルカの腕を掴み止めクナイを押し付ける大賀に、イルカは非難がましく言った。
「蜂巣には何の言葉も無いんですか…」
大賀は薄く笑った。それは見るものの心に痛みを齎す、悲しげな笑みだった。それが大賀の最後だった。大賀は蜂巣に何か言おうとしたのかもしれないし、そんなつもりはなかったのかもしれない。それは永久に分からず終いとなった。だが、その悲痛な笑みが大賀の胸中を物語っていたような気がして、イルカはクナイをそっと仕舞いこんだ。初めて殺めた命への罪悪の気持ちもあったのかもしれない。
イルカの傍らでは蜂巣が幼子の様に泣きじゃくっていた。忍失格とは思わなかった。自分達はまだ十六歳と年若く、中忍になったばかりで人の死に慣れていなかった。唯一の肉親の裏切りの場面に出くわし、その刃を向けられ冷静でいられる方がおかしい。その上この事実が露見すれば蜂巣は忍の道を閉ざされる。忍の罪は一族連座制で、蜂巣もその罪を負う事になるからだ。同胞殺しの罪は重く、例え忍を辞めたところで里から爪弾きにされる事は必至だった。特に信頼の厚かった大賀の裏切りともなれば、憎しみは倍増する。
蜂巣は一瞬にして全てを失ってしまうのだ。
「どうしよう…イルカ…俺は…忍を辞めたくない…辞めたくないよ…」
お前と一緒に上忍になろうって言ってたのに、と泣く蜂巣の背中はとても小さくて頼りなげで。
イルカはとても放っておく事なんてできなかった。
「だから火影様に頼んだんです…俺達だけでは騙し通せる訳が無いですから…」
大賀の裏切りを伏せて。その死をイルカが被ると。どうか蜂巣の将来を閉ざさないでくださいと頼んだのだ。
火影は頷き、他の忍に大賀の死について不審を抱かせない為に、イルカと蜂巣は表面上は袂を分かった様に振舞った。
「それが全てです…」
イルカの話を黙って聞いていたカカシは、ぽつりと一つだけ尋ねた。
「大賀は…どうして里を裏切ったの…?」
その質問にイルカは何処か痛ましげに僅かに顔を歪めた。
「火影様に聞いた話によると…恋人の女郎浮舟の身請けの為です。浮舟は有力な大名が側室として身請けする話が持ち上がっていて…何とかしたい大賀上忍の足元を見て、法外な身請け金を吹っかけてきたんです。勿論、店は始めから大賀上忍に浮舟を渡すつもりなんて無い…無理な話だったんです、」
それでも大賀は我武者羅に働いて。間に合わないと分かってからは、情報を敵に横流しして。最後は運搬護衛の金子に手をつけ、持ち逃げしようとした。駆け落ちをして逃げても、大名の雇った忍に連れ戻される事が目に見えていたから、大賀は必死だったんだろうと火影様は言ってました。
「そう…」
俯くカカシの体が小刻みに震えていた。大賀の死の真実がカカシを打ちのめしているのかもしれなかった。

でもそれは分かっていた事だ…、だから今度は俺がこの人を…

イルカはそっとカカシに近づいて、震える指先に自分の指を絡め、ぎゅうっと握り締めた。
はっと驚いたようにカカシが顔を上げる。その瞳を真っ直ぐ見据えてイルカは言った。
「カカシさん…貴方が好きです。」
好きです、ともう一度口にすると柔らかな唇がイルカの口を塞いだ。
重ねただけの唇がどうしてこんなにも心を幸福に満たすのだろう。

カカシさんも…そう感じているといい、

イルカが絡めた指先に力を込めると、それに応える様にカカシの指先が離さないとばかりに強く絡んだ。
熱い口付けの合間に、俺も、と吐息の様にカカシが耳元で囁く声が聞こえた。



慰霊碑にたどり着いた二人は無言のまま手を合わせた。
不思議と大賀の裏切りに対する怒りや絶望はカカシの胸にはなかった。

あんたの気持ちが今なら俺にも分かる…

以前ならば馬鹿馬鹿しいと一笑に付していた。誰か一人の為に全てを捨てるなどと。そんな芸当正気じゃないと。

だけどイルカを知った今は、きっと俺も同じ事をする…

全てを投げ打ってでも手にしたいと言う狂おしい思いが、今ならば理解できる。何物にも替え難い存在。大賀にとっても浮舟という女はそういった存在だったのだろう。

だからあんたを許す事ができる…

カカシは懐から大賀のクナイを取り出した。ずっと引き摺っていた思いの象徴であるそれを、慰霊碑の側に埋める。
イルカはそれを黙って見ていた。
「いいんですか…?」
躊躇いがちに尋ねるイルカに、カカシは笑顔で応えた。
「こんな物騒なものじゃなく、もっといいもん、手にしてたいよ。」
おどけた調子でイルカの手を掴む。はにかんだように顔を赤くするイルカに、胸が締め付けられる。
だけどそれは嫌じゃない痛みだ。

今、手の中にあるのは胸を温かくする存在。漸く捉える事ができた。

それを逃がしてしまわないように、ぎゅっと握り締めると、白蓮の花の様にイルカが大輪の笑顔をパッと咲かせた。


終わり