第十二回

「あんた、邪魔。」
カカシは厭わしげに一瞥をくれただけで、有無を言わさず蜂巣の体を押し退けると、
「ちょっと、いい?」
くいと顎をしゃくり、イルカについて来るように促した。
集中する物見高い視線に何の注意も払わず、カカシは堂々とイルカの腕を引く。
まだ何の返事もしていないのに、イルカがついて来る事はカカシの中で既に決まっている事のようだった。

不味い…このまま連れ出されたら…昨晩の話の続きをされるに決まっている…

腕を引かれて椅子から腰を浮かせながら、イルカは焦りを感じていた。
カカシに何か勘付かれたかと危惧してはいたが、まさかこんなに早く遣って来るとは思わなかった。蜂巣に危機的状況を知らせている間もない。
カカシが現れるまでは、イルカは騒ぎの中心にありながらも、頭の中は冷静だった。
だけど、今は酷く乱れている。頭の中がぐるぐる回って何も考えられない。こんな状態でカカシと対峙するは不利だ。

…取り合えず、今は一緒に行っては駄目だ…はたけ上忍に仕事途中だと断わらなくちゃ…

真実就業時間中であるのだから、その返答は上忍の面子を潰すものではないし筋が通っている。だから大丈夫だとイルカは自分に言い聞かせた。

この手を振り解いて。早く。

そう思うのに声が出ない。手を振り解く事ができない。
自分がこんなにも冷静さを失っている事を、イルカは何処か他人事の様に滑稽に感じた。何をそんなに動揺しているのかと思う。
それはこの後自分を待ち受ける、カカシの真実を探る尋問が恐ろしい所為もあるだろう。
しかしそれだけではない事をイルカは感じていた。

今回で三度目だ…

カカシは三度自分を助けてくれた。一度目は十年前大賀の件で陵辱されそうになった時。そして二度目はナルトの事で花瓶の水を掛けられる嫌がらせにあっていた時。カカシは自分の手を引いて、陰湿な空気の蟠る場所から連れ出してくれた。
助けたわけじゃないとカカシは言う。
それは真実なのだろう。
大賀の死について話が聞きたいから。自分の部下のナルトが懐いているから。別にイルカを慮っての行動じゃない。だけど。
掴まれた指先が熱かった。
指先から体に巡るその熱が自分を掻き乱しているのだろうかとイルカは思う。
冷めた瞳でインクに汚れた机が鼻先に迫るのを見詰めていた。その顔を卓上に叩きつけられる瞬間の痛みを思いながら、心を波立たせるものは何も無かった。それほど、慣れてしまっていた。
ナルトに目を掛ける度に、大賀の件も取り沙汰にされた。
『あいつは大賀上忍を殺して平然としている畜生だ、だから狐憑きとも気が合うんだろうよ、』
かつての火影の計らいも虚しく、十年前よりも一層イルカへの風当たりは強いものになっていた。
それなのにこの程度の嫌がらせで済んでいるのは、この十年の間にイルカにも僅かなりとも自己防衛の為の知恵がついた所為だ。
日常において多少の暴力を甘んじて受ける事が、イルカに対し鬱憤を溜める輩の謂わばガス抜きになるのだ。
だから、この程度の事はイルカ自身気にも留めない。留めていたらきりが無い。
今更心が揺らぐ事はない。
それが。
カカシがやって来て、自分の手を引いた瞬間。
痛いと感じた。
何も感じなかった筈の胸が、痛い。
巡る熱に心に凍らせていた思いが溶けたように。
痛い 痛い 痛い 痛い
溶けた思いに心が涙を零す。
こんなにも痛かったのかと驚いた。自分の心はこんなにも傷付いていたのかと。自分でも分からなかった。
心が熱く濡れていた。痛くて熱くて。
でも何処かほっとして。
だからイルカは恐れ戦きながらも、カカシに手を引かれるがままに席を立った。カカシの手を離す事ができなかった。
傍らを通り過ぎるイルカを、さっきまで威勢の良かった上忍連中は視線を明後日の方向へ向け、部外者だと謂わんばかりに素知らぬ顔をしていた。皆一様にカカシの不興を買う事を恐れているようで、止めようとする者は誰一人としていない。
ただ蜂巣だけが燃えるような瞳をして、カカシの背中を睨みつけていた。





何処まで行くんだろう…

イルカは手を引かれるがままにカカシに付いて来たが、道中見知った風景に、カカシが何処へ連れて行こうとしているのか思い当たってハッとした。

はたけ上忍は慰霊碑に向かおうとしている…

十年前の約束を果たす時が来たのだと、カカシの背中が告げているようだった。
瞬間イルカは急に怖くなった。
十年前は蜂巣と示し合わせたように、慰霊碑の前で。カカシの前で。自分達が作り上げた嘘の話を聞かせるつもりだった。その事に多少の躊躇いは感じたものの、蜂巣の為を思えば仕方がないのだと思った。
しかし今慰霊碑の前で真実を求めるカカシに平然と嘘がつけるだろうか。十年前も同じような理由でカカシから逃げた。今はあの時よりももっと自信が無い。こうなる事は手を引かれた時から分かっていたのに。

行きたくない…

イルカは今更駄々を捏ねる子供の様に、前を行くカカシの腕を引いて足を止めた。
カカシがゆっくりとイルカを振り返る。その瞳が思いの外真摯でイルカは益々動揺した。

この人は真実を求めている…大賀上忍が何故死ななければならなかったのか…知りたがっている…

カカシが十年の間抱ええてきた苦悩が痛いほど伝わってくる。
だが真実を語る事はそれ以上の苦悶をカカシに科す事になるだろう。真実が解決と安寧を齎すとは限らないのだ。イルカも蜂巣も、それを身を以って知っている。蜂巣の為でもある真実の隠蔽は、今やカカシの為でさえあるような気がしていた。
以前は蜂巣を守る事だけが全てだった。だが今は目の前のこの人の苦しみも、和らげてあげたいとイルカは思う。

俺はどうしたらいいんだ…?

カカシは立ち止まったイルカの手をそれ以上引くでもなく、自分も足を止めて静かに言った。
「ねえ、俺に教えて…大賀が死んだのはあんたの所為じゃない。全ての罪は大賀にあった…そうでしょ?」
その言葉を予想していながらも、イルカは思わず息を詰めた。何と答えたらいいものかまだ心を決めていない。
体が震えていた。答えるのが、怖い。
二人の間を一陣の風が吹き抜けて、両手に広がる蓮池の花を揺らす。遠い過去の日と同じように。

あの時、蓮池の前で…俺の嘘を探るようにその指先で傷跡に触れた…
その指先の動きは悲しくなるほど優しくて、この人がどんなに真実を知りたがっているのかを感じた…
俺はあの時から何も変わらない…心を決めてはまた迷い、この人から逃げてばかりだ…

花びらを閉じた白蓮の花が風に揺れていた。惑う心の動きを映すようにゆらゆらと。隠された花弁は心の中の真実なのか。

はたけ上忍は道に迷っている。大賀上忍の死に今も囚われたまま…揺れている。
俺も迷っている。いつもいつも自分の選んだ答えがいいか悪いか分からずに…

だがもう逃げてはいけない。迷うな、とイルカは自分自身に言い聞かせた。

蜂巣の為に、この人の為に…俺は自分が一番いいと思う答えを信じよう…

イルカはこくりと唾を飲み込むと、カカシから視線を逸らさずに言った。
「俺は何も答える事はできません…貴方に話してあげられる事は何も無い…だけどそれ以外の事は何でもします。それで貴方の気が済むなら…」

続く