第十回

イルカはアカデミーに出勤すると上忍待機所近くをうろつき、カカシの姿を捜したが、行き会う事のできないまま数日が過ぎていた。下忍昇格試験までもう日が無い。焦燥に気も漫ろで、イルカは仕事に全く身が入らなかった。

俺の考え過ぎかもしれないのに…よく知りもしないで、その心根を疑う方が間違っている…

カカシへの猜疑を打ち消す端から、

それでも…もし万が一…俺の所為でナルトが下忍になれなかったら…

すぐに不安が芽を膨らませる。
堪えきれずに昼食時に火影を誘い、カカシについて探りを入れてみた。結果は最悪だった。下忍合格者0の昇格試験報告書を手に、イルカの不安は益々募った。大賀の件がどうの、九尾の狐憑きが云々と言う以前の問題の気がした。この上忍は一体どういう人なのか。詰め寄るイルカに、
『そんなに怖い顔をせんでも、奴は信頼するに足る男じゃ…ただ、カカシの試験は子供達にはちと難しいかもしれん、』
奴はすこうし、癖があるからの、と申し訳程度に眉を顰めてみせる火影が恨めしかった。

『すこうし』どこの話じゃないだろ…!?合格者0なんて有り得無い数字を見せられて、誰が安心できるかってんだ…!

何処にぶつけたらいいのか分からない憤りに、イルカはペンを持つ手にギュッと力を込めた。軸をへし折ってしまいそうだ。

やはり、はたけ上忍と話をしなくちゃ…演習日程をナルトに聞いてみるか…

下忍試験を受ける力量があるかどうか、試験前に上忍師が候補生を試す期間がある。目下ナルトを始め、七班の子供達はその演習に勤しんでいる筈だ。それは受付を通すものでは無い為、イルカが詳細な日程を知る事は出来ない。ナルトに聞くしかないのだ。演習の場に顔を出すなぞ、本当ならば言語道断だ。だがそれしかカカシを捉える機会を思いつかなかった。心配性の自覚はある。だけど。

放っておけないんだ…

揺れる金髪の下の満面の笑顔が浮かぶ。あの笑顔を少しでも曇らせたくない。
イルカは終業のベルが鳴ると即、席を立ち、ナルトの家へと急いだ。
その道途中、
「おーーーい、イルカ先生ーーー!何そんなに急いでんだーーーーー!?」
目当ての子供の大声が背中越しに響いた。
イルカが弾かれたように振り向けば、空には夕陽が大きな赤い円を描いていた。
地面を蹴り自分に向かって駆けて来る、少年の胸に滾る、熱き血潮を思わせるように。夕陽は赤々と燃える。
満面の笑みを浮かべたナルトが、どんとイルカに突進しながら叫んだ。
「イルカ先生、俺受かったんだってばよ!下忍に合格したんだってばよーーーーー!!!!」
「え…」
驚きに目を丸くするイルカの瞳に、ナルトの後ろから遅れて追いついてきた人影が映る。
「イルカ先生、本当よー!私達受かったの、」
二番目に飛び出してきたのはサクラ。次いで黙ったまま足早になるサスケ。そして。
その後ろにカカシがいた。
顔半分を覆う口布に、左目の上に斜めに掛けられた額当て。殆ど顔が隠された状態で、その表情は窺い知る事ができないのに。

あ。

イルカは布地の下のその表情が分かったような気がした。

今、笑った…

唯一晒されたカカシの右目が眇められていた。それだけなのに、どうしてだかカカシが笑っているとイルカは思った。子供達の背中を見ながら、暖かな笑みを浮かべていると。それは暖かな色をした夕陽がカカシの輪郭を縁取っていた所為かもしれないけれど。その瞬間心に蟠っていた不安がすうっと霧消していくのをイルカは感じた。

何を心配していたんだろう…

イルカは自分の浅はかさに顔を赤くすると同時に、カカシに対して酷く申し訳ない気持ちになった。本当に、何をそんなに思い詰めていたのか。自分の物差しで計ってカカシの事をまるで信じていなかった。里長が信頼に足る人物だと言っていたのに。
カカシは子供達を追う視線をイルカに移すと、急にその瞳を冷たい色に変えた。凍える湖水を思わせる冷たい色だった。
だがイルカは構わなかった。
「良かったな、ナルト…」
金髪をクシャクシャと掻き混ぜながら、はち切れそうな喜びに輝く笑顔を見詰める。その格好は試験の過酷さを語るようにボロボロで、酷い有様だ。サクラもサスケも同じように傷だらけでボロボロなのに。皆明るい笑顔を浮かべている。皆を赤く染めているのは夕陽ではなく、胸に灯る希望の火。苦悩の晴れたイルカの心に子供達の暖かな光がゆっくりと満ちていく。

一丁前の顔しやがって…

子供達を見詰めながら、知らずイルカも満面の笑みを浮かべていた。

良かったな、いい先生で…

一楽一楽と、腰にしがみついたまま大騒ぎのナルトに「しょうがねえなあ、」と呆れながら、イルカはカカシに向かってぺこりと黙礼した。他にどうしていいのか、何と言っていいのか分からなかった。カカシも何も返さない。
「じゃ、俺は報告書出さなくちゃいけないから、ここで解散にするか、」
カカシは子供達一人ひとりの頭を乱暴に撫で、呑気な調子で言うと、背を向けてその場を後にした。

俺には一言もなし…か、

仕方が無いと思いつつ、イルカが多少がっかりしていると、不意にカカシが振り返った。瞬間どきりとイルカの胸が大きく脈打つ。
しかし付け足された台詞はやはり子供達に向けたものだった。
「お前ら、明日遅れるなよ、」
その言葉に子供達が一斉に中指を立てて答えた。
「それは、こっちの台詞!カカシ先生、明日は絶対に遅刻しないでよ!」
笑い合いながら、銀髪の長身が身を翻し今度こそ本当に遠ざかっていく。
その暖かな赤に染まる背中を見送りながら、何故だろう、イルカは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。





翌日、イルカはまだ気も漫ろで仕事が満足に捗らなかった。憂いはもう晴れたというのに。どうしてなのか一層気が塞いでいた。

もう止め止め…!こんなんじゃ仕事にならねえだろ…

しっかりしろ、とイルカは山積みになった未処理の書類を前に、ピシャリと己の頬を叩いた。気合を入れて再び机に向かう。イルカは仕事の遅れを取り戻すべく残業に勤しんだが、沈んだ気持ちに効率は今一つだった。そのうち日付が変わりそうなって、慌てて鞄に未処理の書類を詰め込むと漸く帰路に就く。家に帰ってもまた仕事だが、ビールをちびちび、だらしない格好でも許されるところが救いか。そんな事を考えながら、イルカが空腹にグウと鳴る腹を擦っていると不意に、
「イルカ、」
小さな声で呼び止められた。
蓮池が両手に広がる道は街頭も無く真っ暗で、人通りも無くとても静かだ。だから小さなその声も、よく響いて聞こえた。
「イルカ…」
足を止めないイルカに、聞こえていないのかと先程よりも気持ち大きめの声で、また名前を呼ばれる。
振り返らずとも。誰何しなくとも。その声の主が誰なのかイルカには分かっていた。だから、足を止めない。振り返らない。
上忍である筈のその男は、動揺したような気配を漂わせ、ばたばたとみっともなくも足音を立てて追いかけてくる。

阿呆か、

その様子にイルカは驚き呆れた。

十年も上手く騙してきたのに…なんで今頃になってこんな軽率な行動を…?
幾ら人気の無い暗い夜道だといっても、何処で誰が見ているか分かったもんじゃないんだぞ、それなのに…気安く声をかけてきやがって、

追いかけてくる上忍の足音に、イルカも早足になる。
「イルカ、聞こえてるんだろ…!?」
声の主は乱暴にイルカの手を掴んで、その足を無理矢理止めた。そのままぐいと肩を引かれて、強引に後方に振り向かされる。イルカはやれやれと嘆息しながら、いつもの姿勢を崩さなかった。
「れんげ上忍、今時分どうしたんですか…?何か御用でも?」
そう、自分を呼び止める声は蜂巣のものだった。仄かな月光に照らされて、その鳶色の瞳が揺れていた。他人行儀なイルカの口調に応える声が怒気を孕む。
「そんな口の利き方するな…!俺とお前は親友だろう?違うのか…!?」
「しっ、大声を上げるな…!」
声を荒げる蜂巣にイルカが慌てたように人差し指を立て、窘めた。
「物陰で誰が聞いてるとも、分からないんだぞ…?」
「構うもんか、」
投げ遣りに唇を捻じ曲げる蜂巣に、イルカは困惑を深めた。
どうも最近蜂巣の様子がおかしいと思っていたが、まさか無用心にもこんなに直接的に接触を図ってくるとは。せめて書状か何かにはできなかったのかとイルカはまた一つ溜息を漏らした。

誰かが聞いてるとも知れない場所で、不用意な発言は不味い…

イルカが慎重に言葉を選んでいると、思い掛けない言葉が降って来た。
「もう、こんな馬鹿げた事はやめよう…」
「え…?」
聞き間違いかと目を瞬かせるイルカに、蜂巣は噛んで含めるように、もう一度ゆっくりと言った。
「イルカ…こんな馬鹿げた事はもうやめよう…俺が…俺が間違ってたんだ…!」
「蜂巣…」
茫然とするイルカの肩をぎゅうと蜂巣が抱き締める。その行為に驚いた瞬間。風も無いのにざわりと空気が揺れた。それは一瞬にしてとても微かで、興奮している蜂巣は全く気付いていない様だった。だが、イルカは気付いていた。その気配が誰なのかも。途端に全身から冷や汗が伝い落ちる。

どうしてここにあの人が…?

イルカは神経を張り詰めさせながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

続く