第二回

イルカの肩に食い込む男の指先に、更に力が籠もった。
躊躇を許さない圧倒的な殺気を滲ませて、男は出て行けと窓に向かって顎をしゃくる。
「あんたにできる事は、もう何もないよ。」
その言葉はイルカの心に突き刺さった。

できる事は、もう何もない…

その通りだと思った。女は死んだ。もう自分に何もできる事は無い。
イルカは無言のままのろのろと立ち上がった。少しだけ男に向かって頭を下げて窓枠に手をかける。
その拍子に血を吸ったイルカの衣服から赤い滴が滴り落ちて、桶に浮ぶ白蓮の蕾を汚した。
点々と。赤い斑紋が落ちて白い隙間を埋めていく。
何処かそれが憐れで。
思わず汚れを拭おうと指先を伸ばして、イルカはハッとその動きを止めた。

指先までもが赤く、汚れていた。

そんな事にも気付かないなんて。

…馬鹿か俺は…

自嘲を浮かべ、ギュッと手を握り締め、引き戻す。
イルカは胸に競り上がって来たものを唇をきつく噛み締め堪えると、窓枠を蹴って夜闇へと跳躍した。




「は〜…やっと行った…」
銀髪の男・はたけカカシはイルカの背中を見送って、やれやれと呟いた。
未熟な中忍の尻拭いをする事になるとは。任務に当たる際には不測の事態を何百通り先まで考えている。この程度の後始末は朝飯前だが、余計な手間隙である事にはかわりがない。
「面倒臭い…」
不機嫌に言ちながら、カカシはふいに中忍の怯えたような表情を思い出し、忌々しげに前髪を掻き上げた。

どういった任務だか知らないけど…花街に一人で寄越すには餓鬼過ぎるよね…

大して自分と年も変わらないのに、カカシは至極真面目にそんな感慨を抱いた。

しかも…「ごめんなさい」とか言ってたよねえ…

襖越しに何回も聞いた。「ごめんなさい、」とあの中忍の男が悲痛な叫び声を上げるのを。
とんだ甘ちゃんだとカカシは苦々しさを覚えた。任務の経験が浅い事なぞ、言い訳にもならない。
自分は子供の頃から既に人を殺す事に慣れていた。慣らされていた。もっと過酷な状況を前にしても、一糸も心が乱れる事は無い。自分の至らなさに大切な命が散っていく様を二度と傍観したくは無いと、悔恨を胸に歯を食い縛ってきた。
それなのに。

あんな奴がいるから…他の忍の…命取りになるんだ…

つい最近喪くしてしまった面影が頭を過ぎり、カカシは顔を歪めた。
大切な人を喪ってしまった。カカシの心にまた一つ、風穴が開く。穴だらけの心はやがて強風に吹き飛ばされてしまうのかもしれない。全てを剥ぎ取るようにして。

ま、それもいいかもね…

そうすれば何も感じなくて済む。カカシはそんな事を考え自嘲しながら、
「さて、と。それじゃ始めよっか…」
さっさとこの場を片付けようと女の死体に手をかけ、一瞬その動きを止めた。

これは…

女が握るクナイの独特の形。
その変形型のクナイを使う人物を、カカシは一人しか知らない。
極最近慰霊碑に名を刻んだ、肉親の如き存在。

そのクナイがどうして。

まさか、あいつが…!

思い当たった事実にカカシは急いで窓辺に駆け寄り、立ち去った男の姿を捜した。
しかしそこにはもう男の姿は見つからなかった。


どうして俺にこの任務が回ってきたんだろう…

イルカは言い渡された任務に疑問を感じずにはいられなかった。
敵国の軍事城砦の見取り図を奪う重要な任務だった。その潜入部隊にイルカは抜擢された。潜入部隊の中核は暗部で構成され、手練の上忍と中忍がその補佐に当たる。はっきり言って中忍になりたてのイルカには荷の勝ち過ぎる任務だ。
作戦決行の為に召集され、里を後にした今でもまだ信じられない。

足手纏いにならないようにしないと…

薄暗い森を移動しながら、イルカは気を引き締めた。
里を出る間際に、親友の蜂巣が心配顔で訊ねて来た姿を思い出した。

こんな難易度の高い任務がお前に回ってくるなんて…
イルカ、あの件の所為でこんな目にあってるんじゃないだろうな…?だとしたら俺はもう…

弱気になる親友をイルカは励ました。

何を言ってるんだ?約束しただろう…?
それにこんなところを誰かに見られたら不味い…分かってるな?

ぼんやりとその時のやり取りに思いを馳せるイルカの肩を、誰かが背後からぐいと引きとめた。
驚いて振り向くと、獣面をつけた暗部の男が立っていた。この作戦で総指揮を取る男だ。
イルカはこの男に最初からいい印象を抱いていなかった。何故かその男がイルカに接する時口調が皮肉に彩られているようだった。
今も男はイルカに対し酷く苛立っているように見えた。

一体どうしたっていうんだろう…

首を傾げるイルカに、
「あんた、何処まで行くつもり…?ここで時間が来るまで待機するって、聞こえなかった?」
暗部の男が侮蔑をこめた声音で吐き捨てるように言った。
「あ…、」
イルカは狼狽しながら周囲を見渡した。
皆既にそれぞれに作戦決行を前に身を休めている。聞いていなかったのはイルカくらいだ。
「も、申し訳ありません…!」
イルカはカアッと羞恥に頬を赤くして頭を下げた。

任務中に…何をしてるんだ俺は…!?

暗部の男はそんなイルカの態度に益々苛立ったようだった。
「謝られても困るんだよね…そういう問題じゃないでしょ。ちょっと…こっち来て、」
腕を掴まれぐいぐいと強引に引っ張られて、イルカは動揺した。

罰でも受けるんだろうか…?

それも仕方ないとイルカは覚悟をした。作戦中にあんなぼんやりした態度を取っていては、他の忍の命取りになりかねない。ひいては作戦の失敗に繋がる恐れもある。指揮官であるこの男が咎め立てるのは当然の事だろう。
皆が待機する場所から大分離れたところで暗部の男は立ち止まると、掴んだ手を離さぬまま、もう片方の手でホルダーから何かを取り出した。

なんだろう…?

不思議そうに見詰めるイルカの前に、男はゆっくりとそれを差し出して見せた。

あの日郭に置いてきた、遺品であるクナイを。

イルカは驚愕に眼を大きく開き、次いで面を被った男を凝視した。同じような銀髪をしていると思っていたが、まさか。
暗部の男は静かな声で尋ねた。
「このクナイをどうしてあんたが持ってたの…?ねえ、」
尋ねながら、イルカの喉もとにクナイの刃を突きつける。薄皮が切れてプツリと音を立て、浮き出た血が筋状に垂れるのを感じた。だがそんな事よりも。
「…大賀を殺したのって、あんた?」
真実を探るその声が、イルカには一番恐ろしかった。


続く