5万打御礼企画連載「蓮は迷い咲く」


第一回

その花が咲くのを見たのは何年後の事だっただろうか。
朝陽に揺り起こされて、そっと柔らかな花びらを開き金色の花弁を覗かせる。
白蓮の姿は酷く可憐で。

ああ、綺麗だ。

微笑みながら、ずっと昔の事を思い出していた。
まだ花開く前の、迷い咲きの白蓮の姿を。




女はイルカの姿を一目見るなり、予感していたのかもしれない。
イルカ自身もその為に無粋にも忍服を着てきたようなものだった。客ではない、と知らしめるように。
「…随分可愛らしい坊やだ事。そんなに体を固くして…狭斜で遊ぶのは初めてかい?」
からかうように嫣然と微笑みながらも、女の動揺を伝えるように煙管を握る手が微かに震えている。
その指先の爪が桜貝のような色をしているのを、綺麗だな、とイルカは思った。
イルカは無言のまま懐から袱紗の包みを取り出すと、そっと女の前に差し出した。
「…頼まれました…今わの際に貴方に届けて欲しいと。」
告げるイルカの声も震えていた。
女の顔から微笑が消え、その視線が袱紗に注がれる。女は暫くの間それに手を伸ばさなかった。
沈黙がイルカと女との間に落ちる。
イルカは何も言う事ができずに、肩を落とす女の背後をただじっと見詰めていた。
窓辺に置かれた水を張った桶の中に、見事な白蓮の花が一輪浮いていた。薄暗い行灯よりも明るい白光を放つその花に、イルカの注意は引き寄せられた。しかし、惜しいかなまだ蕾のままでその花弁を覗く事はできない。

…明日の朝には咲いているんだろうか。きっと綺麗だろうな、

イルカはぼんやりと見詰めながら、そんなどうでもいい事に思いを馳せた。
部屋に吹き込む夜風に白蓮がゆらゆらと楽しげに水の上を揺蕩う。その姿が酷く可憐で。
開けられた窓からは客引きをする男の声や女の媚を含んだ嬌声が聞こえているというのに、イルカは一瞬、ここが何処なのか、自分は何をしに来ているのか、忘れてしまいそうになる。
それをふいに呟く女の声が現実に引き戻した。
「遺品は無いと思っていたのに…」
「……」
女の言う事は尤もだった。忍は死ぬ時にその骨をも残してはいけない。禁忌を犯している自覚はあった。
だがまだ十六歳の中忍になりたてのイルカは、その深刻さを本当には理解していなかった。

俺は託されたんだ…あの人の最後の願いを…

ただそれを叶えたい一心で。
それがどういった事態を引き起こすかも分からなかった。
女はイルカの目の前で漸く袱紗の包みを広げた。
中から出てきたのはクナイだった。手入れの行き届いたクナイは使い込まれた風合いをしながらも、鋭い輝きを放っていた。
どうしてこんな物騒なものをと思うが、事切れる寸前に咄嗟に手にしたものがクナイだったのだろう、とイルカは考えていた。
ある意味、男と常に共にあったその武器は、男が遺すに一番相応しいものともいえた。
瞬間大きく体を震わせた女に、次には声を上げて泣き崩れるであろう事を予想してイルカは身構えた。
しかし。
意外な事に、女はうっすらと。

微笑んだようだった。

え…?

見間違いかと目を瞬かせるイルカの目の前で。
「…嬉しい…これで漸く一緒になれる…」
うっとりと呟きながら、女が手にしたクナイを己の首筋に押し当てる。
それは一瞬の出来事だった。
躊躇う事無く横に引かれたクナイに、女の喉元から血飛沫が上がった。止める暇もなかった。
茫然とするイルカの頬を次々に生暖かい飛沫が打ち付け、赤く濡らしていく。イルカは目の前で起こった出来事をすぐに理解する事ができなかった。どさりと崩れ落ちた女の顔には至福の表情が浮んでいた。
禍々しき血の赤に汚れながらも、とても美しい。
「あ…っ」
イルカは突然追いついた現実に体を震わせた。
「あ…あぁぁ…っ、」

俺はなんていう事を…!

今更ながらにクナイを形見に遺した男の意図が分かった。
追って来いと。女に自分の後を追って来いと、そういうつもりで男はクナイを託したのだ。
自分がこの女に死を運んできた。自分が死なせてしまった。女も。そしてこの形見を遺した男も。自分が殺した。

そう、俺が殺した。同じ里の上忍をこの手で。俺が…

罪悪に苛まれる心が、イルカに遺品を運ばせた。せめてもの罪滅ぼしのつもりに。

それが、こんな…

「ごめんなさい…っ、」
どうしたらいいのか分からなかった。もうこれ以上どうしたらいいのか。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめ…ごめんなさ…っ」
イルカは手のひらで顔を覆い何度も叫んだ。
答えるべき声は無いのに、何度も何度も。
その時イルカの背後で、ガラリと無造作に襖が開いた。
「血臭がするから何事かと思えば…あ〜また派手に死なれたもんだねえ…痴情の縺れ、ってわけでもなさそう…ということは、あんた任務中?」
吃驚してイルカが振り返ると、そこには着流しを着た銀髪の男が立っていた。いかにも放蕩息子風のその男はあまりイルカと年が変わらないように見えた。年にして二十歳手前。この凄惨な光景を前に眉一つ動かさず、造作の整った顔に笑みさえ浮かべている。そこが尋常でなく、何処か恐ろしい。
「初任務は失敗…ってトコ?俺も今任務中なの…だから同じ木の葉の忍にあんまり派手な事件起こして欲しくないんだよね…」
男は口の端を吊り上げ、酷薄な笑みを浮かべながら、
「ここは俺が何とか始末しておくから、あんたは窓から出ていって。目に付かないよう迅速に、ね。」
分かった?とイルカの目を覗き込んだ。矢継ぎ早に捲くし立てられて、イルカは目を白黒させた。
ただでさえ頭は混乱しているというのに。この男は一体何者なのか。
しかし、その答えをイルカは男の瞳に見出した。
男の赤々と燃える左目に浮ぶ雷の如き紋様。

写輪眼…!

それは木の葉の優秀な忍である、うちは一族に現れる血継限界の印、写輪眼だった。
写輪眼の持ち主が関る任務は、難易度の高い極秘任務である事が多い。イルカはゴクリと唾を飲み込んだ。なんて運の悪い。
「出てってくれるよね…?」
男の物言いは柔かいのに、抗いを許さない剣呑さを含んでいた。言外にこれは命令だと臭わせて。
掴まれた肩にめり込む指先に、骨が軋んで痛みを訴えていた。
「う…っ、」
男の言葉に従うべきか否か。
イルカは痛みを堪えながら、自分はどうするべきか考えていた。


続く