6.イルカの切符(下)

(誰が降りなくちゃいけないって…?)
イルカは少女の言葉に何度か目を瞬かせました。
少女とカカシの顔を交互に見比べます。
しかしカカシはといえばつまらなそうな顔で、
「孔雀もいる、」
やはり窓の外を見詰めているのでした。
青い橄欖の森に羽根を広げるかささぎも孔雀の姿も、見えない天の川の向こうにさめざめと光ながらだんだん後ろの方に行ってしまい、今は遠くで羽根が光を反射するさまがぼんやりと見えるくらいでした。
「…そうね、孔雀もいたわ、」
少女は何処か諦めたように、カカシに調子を合わせました。
二人の手はずっと繋がれたままです。
イルカはそれを見ていると、何故なのか酷く辛い気持ちになるのでした。
(どうしてだろう…俺はカカシに女の子の手を振り解いて欲しいって思ってる…大体カカシはさっきからこの女の子と喋ってばかりいる…俺と一緒にこの汽車に乗ってきたのに…)
むっつりするイルカに気付いたのでしょうか、少女ははっとしたように、そろりとカカシの手から自分の手を退けました。
その仕草にイルカは恥ずかしさにカアッと顔を赤くしました。
(俺に気を遣ってこの女の子は…それなのに俺はつまらないやきもちで、この子を邪険に思って…)
もっと心持を高く持たねばならないとイルカは自分を反省しました。
(どうも俺はカカシのことになると、気持ちが不安定になる…いつもはこんなふうじゃないのに、)
そう考えて、イルカは「いつも」ってどんな時だ?と自問しました。

『いつも』。
子供達を前に授業をしている時。
受付に座っている時。
…や…と話をしている時…
「いつも」上手に、忘れた振りをして、
そして、笑って。俺は…

何かを思い出しそうで。しかもその記憶の断片は酷くイルカの胸を圧迫しました。
(怖い…心がバラバラに砕けてしまいそうだ…、)
イルカが思わずぎゅうと胸を押さえた時、
「私は降車口に立っているわ、もうすぐ停車場だから。」
リンという少女が慌てて立ち上がりました。その瞬間少女のスカートから、何か紙切れがひらりと落ちました。
「これ…」
イルカは咄嗟に拾い上げたそれを何気なく見ると、それは小さな鼠色の切符でした。
(あっ、これはカカシの切符と同じ…)
しげしげとよく見るとその切符に文字はなく、ただ赤い蠍の絵が描いてあるのでした。
「ありがとう、」
少女はイルカから切符を受け取ると、淋しそうに笑いました。
「ねえ、あなた。蠍の火って知ってる…?」
少女はイルカに尋ねました。イルカが首を横に振ると、少女は美しい声で話し始めました。
「昔、バルドラの野原に一匹の蠍がいて、小さな虫や何かを殺して食べて生きていたんですって。するとある日いたちにみつかって、食べられそうになったんですって。蠍は一生懸命逃げたんだけど、いたちに捕らえられそうになって、その時目の前にあった井戸に落ちてしまったの、蠍は溺れながら神様にお祈りをしたというわ、
『ああ、私は今まで幾つの命をとったかわからない、そしてこの私が今度はいたちに捕られようとした時一生懸命逃げたのに、結果はこのように何の役にも立たず溺れ死のうとしている。どうして私はいたちに自分の体をくれてやらなかったのか。そうしたらいたちも一日生き延びたろうに。どうか神様。私の心をご覧下さい。こんなに虚しく命を捨てずに、どうかこの次にはまことのみんなの幸いの為に私の体をお使いください。』
そしたら蠍はいつか自分の体が真っ赤な美しい火になって、燃えて夜の闇を照らしているのを見たって…。」
少女はそう言って、大きな瞳からぽとりと滴を落としました。
「次の停車場はねえ、そんな風に他人の幸いの為に命を差し出したような人が行くところなの…今尚赤い火となって、みんなを照らしている…」
少女はイルカの手を取って、忘れないでね、と小さく言いました。
「時々空を見上げて、蠍の火を見詰めてね…」
少女の目からぽろぽろと零れる涙は、蛍の光の様に淡く光って、薄暗い車内を明るく照らしました。
(なんて綺麗な涙なんだ…)
何処か胸が締め付けられるような感じがして、イルカは上手く答えることができずに、ただ何度も何度も頷きました。
少女は手で泪を拭うと、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべて、降車口へと去っていきました。
カカシは背を向けたまま、じっと窓の外を見詰めていました。
窓の外は真暗な銀河が広がるばかりで、今は何も見るべきものはありません。
「カカシ、何を見ているの…?」
イルカは同じように窓の外を覗き、次にカカシに視線を向けて吃驚しました。
カカシは泣いていました。
その瞳から零れ落ちる涙は、火のように赤く輝き、床に落ちる前に消えていきました。
イルカは急に不安になりました。
いいえ、正直に言えばさっきからずっと不安だったのです。

この汽車の中で、カカシにあってからずっと。
ずっと不安だったのです。

「カカシ…俺たちはずっと一緒に行くんだろ?ねえ、切符を見せてくれない?さっきから俺、その事が気になって…、」
「イルカ、」
カカシは零れる涙をぐいっと拭いて、静かな声で言いました。
「もうお別れだよ、俺は次の停車場で降りなくちゃいけない、」
暗い窓の外が俄かに明るくなり、ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりも美しく酔ったような火が燃えていました。
『次の停車場は蠍の火ー蠍の火ーお降りのお客様は降車口に並んでください、もうすぐ到着です、』
車内に車掌の声が響きました。


続く