(7)

「カカシの状態をどう思う、イルカよ。」

別室に待ち受けていた火影が、厳しい面持ちでイルカを迎えた。傍らに控えるアスマの姿もどこか物々しい。その他の側近の姿はなく、どうやら火影はごくごく内密にイルカとの話を進めたいようだった。座るようにと勧められた椅子を断わって、イルカも真剣な眼差しで火影に応えた。

「確かにカカシ先生の様子は異常です。一体カカシ先生の身に何が起きてるんですか?」

言いながらイルカは少し困惑した顔をして、「どうして俺は呼ばれたんですか?」と控えめに付け加えた。

カカシの容態は里の間でも最重要機密のうちの一つに入るだろう。写輪眼という異能の瞳を持ち、その実力は忍の世界でも知らぬ者はいないほどだ。カカシ一人で小国を一つ落とせるほどの戦力に匹敵する。そのカカシが身動きが取れない状況にある事を知られてしまったら、事ある毎にその首を狙っている敵の刺客が見逃す筈がない。
だから一ヶ月の間この事実は厳重に隠蔽され、漏れることがなかったのだろう。そんな機密をどうしてイルカに易々と漏らしてしまうのか。たかが一介の中忍でしかない自分に。
アスマはイルカがこのカカシの異変に関与しているような事を臭わせていた。火影がそう言っていると。だが、それはイルカにとって頷きがたい言葉だった。何も心に覚えがない。
イルカは酷く場違いなところに紛れ込んでしまったような気がして、何処か心許なく落ち着きに欠いていた。
火影はイルカの言葉を受けて、暫し逡巡した後口を開いた。

「イルカよ、カカシの奴は一ヶ月前、戦場で突然倒れた・・・・負傷が原因ではない。実際その時カカシは何等致命的な外傷を負っていなかったんじゃ。長期の従軍で疲労していたのは何もカカシばかりではない。ここにいるアスマだとて同じ事だ。カカシは況してや一流の上忍、自分の戦力の配分や体力の温存を念頭に入れず動く筈もない。じゃが・・・運ばれたカカシの身体は確かに限界に来ていた。幸いカカシの意識ははっきりしておって、何か敵の術にかかったのではないかと詳細を聴いてみたが、そんな事はないと言う。勘が狂っていたらしいというカカシの言葉を鵜呑みにしておったが、一ヶ月経ってもあの有様じゃ。ここに来てようやくカカシが尋常じゃない状況にあることに気付いたというわけじゃ・・・・。カカシ自身もな・・・・なんとも情けない・・・。」

火影はそこまで一気に説明すると、眉間に皺を寄せてホウと大きな溜息を吐いた。

「もう一度アスマを呼び寄せ、その時の状況の詳細を聴いてみたが、徒労に終わったようじゃ・・・・・・」

すまなかったのアスマ、という火影の労いに、側に控えていたアスマは黙礼した。イルカは火影の言葉を怪訝な顔をして聞いていた。火影の話は理解できる。だが、そこにどう自分が関わってくるのか。じれったい様な気持ちになって、イルカが再度その事を尋ねようとしたその時、火影が先んじて口を開いた。それは意外な言葉だった。

「現在に原因を見出す事ができないならば、過去に何かその原因があるのではないか・・・?儂がそう考えた時、ふと九年前の大戦争のことを思い出したのじゃ・・・」

その言葉にイルカは眉を顰めた。九年前の大戦争には自分も参戦していたらしい。らしいというのは自分に前後の記憶がないからだ。その戦争は他国間とのものではなく、内乱であっただけに泥沼化し悲惨なものだったという。その戦地でイルカは負傷し意識を失ったらしく、目覚めた時には木の葉の病院のベッドの上で、もう何も覚えていなかった。失った記憶は数ヶ月分にも及んだが、特に不都合もなかったのでイルカはその事を気に掛けたことはなかった。話に聞いたところでは、失ったその数ヶ月の間、イルカはほとんど任務に従事していたらしかった。血で血を洗う任務を厭う弱い心が、自分から記憶を奪ったのではないかとイルカは漠然と感じていた。イルカは自分が忍として、何処か不向きな部分を持っている事を常日頃から自覚していたからだ。だから思い出したいと思った事もなかった。
だから、火影がその時の事を訊きたいのだとしても、何等期待に添える事はできなかった。

「火影様、俺、その時の事は何も覚えては・・・・」

言いかけたイルカの言葉を火影が途中で遮った。

「分かっておる・・・・お前があの時の記憶がない事を、儂は知っておる・・・・儂はその時の報告を受けた時、その状況に疑念を感じつつも黙認した・・・失ってしまった方がいい記憶もあると思ったからじゃ・・・・お前も、カカシも。」

お前も、カカシも。

火影の言葉がイルカに喩えようのない衝撃を齎した。火影の口ぶりから察するに、その戦争でカカシも記憶を失ってしまったかのようだ。自分と同じように。分からなかった。ひょっとして自分とカカシはその戦争で同じ部隊にいたのだろうか。顔見知りだったのだろうか。それにしても九年も前の話だ。それが今頃どうして問題になるのだろう。
そのイルカの疑問を察したように火影が苦い顔をする。

「正直、その時のことが原因かどうか、その辺のところは確証がない・・・じゃが、今は少しの疑念も晴らしていかなくてはならぬのじゃ・・・九年前のその戦場で、カカシは禁術を使ったんじゃないかと儂は疑っておる。その時カカシの左手の指先が欠損していた・・・体の一部を代償として発動する、邪術を使ったからではないかと思っておる・・・記憶を失ったのもその所為ではないかと。禁術は大きな効果を期待できるが、半面それを使った術者に大きな犠牲を強いるものだ・・・・それがどうしてかは分からぬが、今頃カカシに現われているのではないのかと。馬鹿な考えだと思うが、一笑に付す事もできん。それが何の術なのか儂には分からんが、特定できればカカシのあの状況を何とかできるやも知れん・・・・しかし、あの状態のカカシに記憶を取り戻す術を施すのは、負担が掛かりすぎる・・・・」

イルカの耳には最早火影の言葉は届いていなかった。禁術という言葉が、イルカの頭の中をぐるぐると回っていた。

禁術。あの夢の中で男が言った言葉だ。これは禁術だと。
そうだ、あの時男は禁術だと言って、火の種を。火の種・・・?いいや、違う、あれは血ではなかったか。
自分の喉を流れていったのは、あの男の血ではなかったか?
火の様に熱い、血ではなかったか。
血を流していたのはどこだ?指先だ。そう、左手の薬指の先を、あの男は切り落として。

あの時、自分の胸を焦がしたものはなんだったのか。

思い出したい。思い出したくない。思い出すのが怖い。

「イルカ・・・?どうかしたのか?」アスマの訝しげな声が遠くで聞こえる。

イルカはその心配そうな声音にハッと正気付いた。何か答えなくてはと思いながらも、唇が震えて思うようにならない。火影はそんなイルカの様子を痛ましいものを見るような瞳で見つめながらも、はっきりと言った。

「イルカよ、実はお前が発見された時、傍らにカカシも倒れていたのじゃ。お前は何か知っている筈。お前にとって厭わしい記憶を思い出させるのは忍びないが・・・カカシを放って置くことも出来ん。これは儂にとって究極の選択じゃ・・・儂はお前に記憶を取り戻す術をかけたいと思うておる。頷いてくれんか、イルカよ。」

その言葉を聞いた時、何かがイルカの中で弾けて、その衝撃でイルカは意識が遠のいていくのを感じた。身体がいうことをきかずに崩れ落ちていく感覚。

イルカは意識を手放しながら、自分の唇に微かな柔かな羽根のような感触を感じた。

あの時、意識を失う直前に寄せられた、最後の口付けの感触を。

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