(5)

「イルカ、ちょっといいいか。」

その日受付所に現れた人物の姿に、イルカは驚いたように大きく目を見開いた。

「アスマ先生・・・!任務から戻られたんですか・・・・?」

開戦してから三ヶ月が過ぎていたが、戦争が終結したという噂は聞いていなかった。しかし今こうしてアスマが戻ってきたという事は戦いは終息に向かっているということか。イルカはそう考えて眉を顰めた。当初の目論見通り、戦火の広がりは最小限に抑えられているが、前線は泥帯水の陋を遺憾なく示しているという。戦況が昨日今日で大きく動いたとは考えがたかった。ということは、何か帰還せねばならない緊急事態が起きたという事だ。
だが、それをイルカが訊いていいものかどうか。それよりもアスマは自分に何の用事があるというのか。
よく見るとアスマは戦場から受付所に直行したのか、大分草臥れた格好をしていた。乾いた血のどす黒い染みの上を、鮮血が上塗りしている。最早アスマの衣服は地の色を残していなかった。アスマの放つ濃厚な血の臭いに混じる僅かな腐臭。死の臭いがした。

「ああ、俺は一時帰還でまたすぐ戦場に戻らなくちゃならねぇ。それよりも、今抜けられるか、イルカ?」

アスマの言葉にイルカが頷くと、アスマはイルカを連れて木の葉病院へと向かった。

「何かあったんですか?俺はどうしてこんな・・・」

道中説明を求め口を開いたイルカにアスマは首を横に振った。アスマは何処か焦燥しているようだった。

「それが分からねえ・・・俺にもさっぱりだ。ここからは口外厳禁だが、実は今から1カ月前にカカシが戦場で倒れて木の葉の里に強制送還されてたんだが・・・・どうもカカシの様子がおかしいらしい・・・・俺は奴さんが倒れた時その場に居合わせていたんだが、確かにおかしいと俺も思ったぜ。致命傷になるような大した負傷も何もしてねえのにいきなり倒れたんだからな・・・・チャクラ切れにしてもカカシはプロだ。動けなくなるほどの戦力配分をしてるとは思えなかったしな。・・・俺はその時の詳細を聞きたいと緊急で呼び戻されたって訳だ。そんな事普通にあるわけじゃねえ・・・。だがカカシに何かあったら里は戦力的に大打撃だからな・・・」

アスマの口から無造作に語られるカカシの現状に、イルカはあまりの驚きに胸が潰れる思いがした。

カカシ先生が1カ月も前に里に帰っていたなんて・・・全然知らなかった・・・・
それくらい極秘事項って事か・・・?

一体カカシに何がと思いながら、イルカは最後に会った夜の事を思い出していた。中途半端で後味の悪い別れになった事を悔やんでいた。カカシは寂しそうな瞳をして自分に好きだと告げた。どうしたら伝わるのかと訊いた。その告白がいつもと違って胸に残った。何時戻るとも知れぬ戦地に赴く前の言葉とは、知らなかったから。あの時カカシは長い任務に出ると言っていたのに、自分はそれを実感を持って聞いていなかったのだ。イルカはどんなにカカシが長い任務に出ても戻ってくるとばかり思っていた。その事に疑いを持ったことのない愚かしさに自嘲したくなる。イルカの日常は何時までも地続きで、何か特別なことがない限り途切れることがない。そんな物差しでカカシを見ていた。カカシがいつも上忍だと忘れてしまうような態度で接してくるから。
だが、カカシは本当は違っていたのだ。カカシはいつも自分とは違う地点に立っていたのだ。上忍という、何時命を失ってもおかしくない、生き延びることの方が難しい世界に身を置いて。明日を数えることの出来ない世界で、カカシが自分に告げた言葉を良く考えることもしないで。
自分の立場でしか考えていなかった。後悔していた。カカシが帰ってきたら、中途半端になったあの話の続きをしたいと思っていたのに。それなのに。

今カカシはどうしているのだろうか。彼岸と此岸の境界で立ち往生しているのだろうか。

だがアスマが呼ばれるのは分かるとして、自分も呼ばれるというのはどういうことだろう。イルカはその不可解さに思わず首を傾げた。

「それで・・・何で俺は呼ばれたんでしょうか・・・・?」

訝しげに眉根を寄せて考えるイルカに、アスマも少し困惑した顔をする。

「確かにな・・・・まあ、お前ぇ恋しさにカカシが駄々を捏ねたってわけでもなかろうし・・・」

何処か面白そうに揶揄するアスマに、イルカが露骨に嫌な顔をした。今その問題に触れないで欲しい。切実にそう思う。それにそんな事態ではないではないか。

「アスマ先生・・・こんな状況に不謹慎ですよ・・・幾らアスマ先生でも今度言ったら殴りますからね、俺!」

顔を少し赤くしてイルカがアスマを睨み付ける。おお怖、とアスマはわざとらしく肩を竦めて見せながらも、今度は真顔で付け加えた。

「まあ、なんだ、人生万事塞翁が馬と言うじゃねえか・・・そんなにカカシのことを毛嫌いしないで、ちっとは考えてみてやるのもいいんじゃねえか。ああ見えてあいつは本気も本気だぜ?」

「・・・アスマ先生、お節介ですね・・・」更に顔を茹蛸のようにしながら、イルカが怒ったように言うと、

「ああ、よく言われる。」とアスマは悪びれた様子もなくしれっと答えた。

「それに、ひょっとするとカカシは・・・・」アスマはそういい掛けて、何処か思案するように途中で口を噤んだ。その先の言葉を告げることを躊躇っているようだった。アスマは自分からその話を振っておいて言葉に詰まると、「こんなこと話してる場合じゃねえ」と強引に話を元に戻した。

「イルカ、お前ぇが呼ばれたのは、どうやら今回のカカシの異変にお前が関係してるらしいって話だ。」

思いがけないアスマの言葉に、イルカは心底驚いていた。「は・・・?」と間抜けな声を上げてしまったほどだ。

「そ、それはどういう・・・?え?」

全く心当たりのないイルカは情けなくもうろたえてしまった。アスマが言っている意味が全く分からなかった。

「俺も話を聞いてないから分からねえ。ただ、俺の話を聞いて、今回の戦場での出来事がカカシをおかしくさせてるわけじゃないと火影様は判断したらしい。・・・しかもお前を呼ぶのは内密のことだと火影様は言っていた・・・・まだ確かではない、だからこれから確かめるのだってな・・・・火影様ですら半信半疑ってことだ・・・俺の方が訊きたいぜ、イルカ。」

アスマは真剣な瞳をして言った。

「お前とカカシの間に何かあったのか?」

イルカは何も答える事ができなかった。答えるべき事実を持ち合わせていなかった。イルカは言葉もなく、ただただ首を横に振った。アスマもそれを予想していたのか、それ以上追求してこなかった。
どういうことなのかとイルカは思った。頭の中は真っ直ぐにたゆまず進む足とは違い、混乱に荒れ狂っていた。どんなに記憶の箱をひっくり返してみても、火影やアスマの望むような出来事を見つけることは出来なかった。

火影様は何か勘違いをしているんじゃないだろうか。

イルカはそう思いながらも、何処か胸の奥が形の無い不安にギュッと縮こまるのを感じた。



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