(最終回)

 

誰かが呼ぶ声が聞こえる。
何処からか自分を呼ぶ声が。
それは遠く微かで。とても心許なくて。

それなのにどうしようもなく、熱く心を震わせる。

いつも何かが欠けているような気がした。
心の半分が削げ落ちてしまっているような、大切なものを失くしてしまったような、そんな気が。

それは声の導く先にあるのだと、高鳴る鼓動が俺に告げる。
俺の頬を優しく辿り、柔かな羽根のように唇に触れた。

夢なんかじゃない。その輪郭すら確かではないのに。
俺には分かっている。

あんたはそこにいる。

 

 

三年もの間続いた火の国と三国間との戦争は、数日前和平協定を結ぶ事によってようやく終結を見た。
長きに渡り戦いに従事していた忍が続々と復員してくる中、その対応に受付所は大混雑していた。

「大忙しで参るよ、本当。」

途切れない列にイルカの隣で同僚がこっそり呟く。

「まあ、嬉しい悲鳴だけどな。」

イルカがそれに答えて笑うと、全くだ、と同僚も笑顔を浮べた。
こうして多くの同胞が戦地から帰って来るのを向かえるのは喜ばしい事だった。見知った懐かしい顔を見つけたりすると心が弾む。それ以上に多くの命が散って行った事を知っているだけに。
この三年次々と目ぼしい忍に召集がかかる中で、終ぞイルカにその任が命ぜられる事はなかった。
否、正確に言うと早い段階で参戦はしたらしい。
だがその戦地で重傷を負ったらしく、命は助かったがずっと昏睡状態にあったのだ。一年もの間眠り続けたイルカが目覚めた時は体はガタガタで、すぐには使い物にはならなかった。その上参戦した前後の記憶を失っていた。
失ったのはほんの僅かな間の記憶だ。取るに足りないほどの。

それなのに。

俺はその記憶の中に、何か大切なものを置いて来てしまった。

漠然としていながら、イルカはそれを確信していた。
それが何だったのかは分からない。だがいつも何処かで誰かが呼ぶ声が聞こえた。
その微かな声が聞こえる度、それに応えるように心臓が大きく鼓動を刻み、欠損した指先が熱く疼いた。

誰かが俺を呼んでいる。
そして俺も。俺の心も呼んでいる。

欠けた心の半分を温かく満たすその存在を。

何も覚えていないけれど。
俺はきっとすぐに見つける。

 

 

「任務お疲れ様でした。」

イルカは次々と書類を受け取り、復員してきた忍を労った。それなのに列に並ぶ人数は減るどころか、さっきよりも増えているようだった。もっと迅速に処理しないとこれは終らないぞと、長蛇の列をちらと見遣った時、がらりと受付所の扉が開いた。

次の瞬間、入って来た銀髪の猫背気味の男の姿にイルカの動きが止まった。
復員してきたのだろうその男は酷く草臥れた形をしていた。全く知らない顔だった。

だけどすぐに分かった。

激しく脈打つ心臓が呼んでいた。欠けた指先が熱く疼いた。

それが聞こえたように、銀髪の男は受付所を見渡すとハッとしたような顔をして、イルカの上で視線を止めた。
男は震える足取りでゆっくりとイルカに向かって歩いて来た。イルカはそれを目を逸らすことなく見詰めていた。
イルカの前で書類の受付を待つ忍が苛立ったような素振りを見せる。「お、おい、イルカ・・・?」隣の同僚が焦った声をあげイルカを肘で小突いたが、イルカには聞こえていなかった。

聞こえていたのは、自分を呼ぶ声。

遠く微かだったその声が、今ははっきりと聞こえていた。

俺の呼ぶ声も聞こえているだろうか。

しかし聞こえていまいがイルカには関係なかった。聞こえていなかったらその耳元で直接囁くだけだ。

すぐ近くまで来た男が眩しいような目をして、何かを言いたげに口を開きかけた。
イルカはその言葉を待つ気は無かった。

俺が先だ。

イルカは男の胸倉をぐいと掴んで顔を引き寄せた。噛みつくように唇を重ねる。
瞬間驚いたように体を震わせた男の腕が、すぐにイルカの体を抱き寄せた。

別れていた鼓動が一つに重なる。

 

ほら、辿り着いた。

 

 (終)