エピローグ

 

もうこんな馬鹿げた事は止めんか、カカシよ。
こんな事をしておっては、いつか必ずイルカは命を落とす。

かつて火影様の忠告を俺は鼻先であしらった。何を馬鹿な事をと、その杞憂に嘲笑さえ浮べて。

絶対に死なせるつもりはなかった。自分の命に代えても。
そして絶対に離すつもりもなかった。片時も俺の側から。

イルカに引き止められたあの日から、俺はイルカの為だけに生きてきたのだから。

息を継ぐ度に。胸の鼓動を聞く度に。いつもイルカの事を思った。
俺の中にはイルカの事しかなかった。

だからイルカも。
イルカの中も全て俺で満たしてしまいたかった。他のものが入り込む余地の無いほどに。
俺のことしか、考えられないように。
俺はイルカを力で捻じ伏せ残酷に蹂躙した。僅かな自尊心をも許さず全てを毟り取った。
それを間違った事だとは露ほども疑う事はなかった。
俺に煉獄の生き地獄へ戻る事を強いたのはイルカだ。
俺がこの身に受けた煩悶と苦しみをイルカも身を以って知るべきだ。
そうして苦しみながらも。
俺が。イルカの為だけに生きてきた事を、分かって欲しかった。
組み敷いたイルカの中に押し入り欲望を吐き出すと、イルカの全てが俺で満たされているような気がした。

そう、俺は思い違いをしていた。

それに気付いたのはイルカが笑っているのを見た時だった。
アカデミーでの旧友を前に、イルカは白い歯を覗かせ屈託の無い笑顔を浮べていた。
イルカの友人も同じように笑い、二人で拳骨で小突きあうようにして悪戯けていた。
その顔に初めて会った時の幼いイルカの笑顔が重なった。

今の俺に向けられる事のない笑顔が。

どす黒い思いが俺の中で急速に膨れ上がった。俺以外の誰かに微笑むイルカに。その友人に。
憤怒に血を沸き立たせながらも、心の片隅で感じる不安に恐れ戦いていた。

俺は何処かで間違ってしまったんじゃないかと。
そんな事を今更考えて。

俺は今まで以上にイルカを俺で満たそうと躍起になった。
イルカの友人は前線に送った。イルカから引き離したい一心だった。
しかしその子供染みた嫉妬が俺とイルカとの間に決定的な軋轢を生んだ。
数日の間にその前線は敵の奇襲により壊滅した。イルカの友人の命をも呑み込んで。

イルカは俺を許さなかった。

どんなに激しく鞭打ち苛んでも抵抗をやめなかった。涙に濡れた黒い双眸には憎しみと嫌悪が宿っていた。
イルカがどんどん遠くなるのが分かった。それなのに引き止める術が思いつかない。

今まで以上に残酷に鞭打つ事しか。

手を緩めたら逃げ出してしまうことが分かっていた。俺は手加減することなく鞭を振り下ろした。
だがその手はいつも震えていた。鞭を取り落としてしまうのではと思うほどに。それを俺は何度も握り直した。

他にどうしたらよかったのか。

絶対に離すつもりはなかった。イルカを離すつもりは。

 

そしてその結果がこれだ。

 

俺は目の前で血を流すイルカの姿を呆然と見詰めた。俺を庇って。俺なんかを庇って。イルカは死に掛けていた。
俺は自分自身を詰っていた。絶対に死なせないと豪語しながら、俺は分かっていた筈だった。負傷した自分の体が思い通りに動かない事を。そしてそんな状態でイルカを連れて当たるには、危険すぎる任務だと。分かっていたのに連れてきた。

俺が離れたくなかったから。
いざとなったらきっと助けられる。今までのように。

そんな甘い考えをして。

俺が、イルカを。

俺は火影様の言葉を思い出していた。俺が笑い飛ばしたあの言葉を。分かっていなかったのは俺の方だったのだ。

どうして俺なんかを庇ったんだ。

「イルカ・・・イルカ・・・・イルカ・・・・ッ・・・!・・・・!」

俺を、憎んでいたんじゃなかったのか。

俺は名前を呼びながら震える指先でイルカの頬を何度も辿った。指先から伝わる熱がどんどん冷えていくのを感じて、忍び寄る死の影を強烈に意識した。

誰にも渡したりなんかしない。たとえそれが天からの使いであっても。

俺はすぐに心を決めた。一度も使ったことの無い禁術。うまくいくのかさえ分からない反魂の外法を今ここで使おうと。

「俺はあんたを絶対に死なせない・・・」

躊躇いは無かった。

「俺より先に死ぬなんて、絶対に・・・許さない・・・」

零れる涙を拭う間さえ惜しかった。俺はすぐさま小刀をとりだし左手の薬指を切り落とした。

小指に繋がっているという運命の赤い糸なんて信じない。
俺は心臓に繋がるこの指先から溢れる血であんたを繋ぎとめる。

 「俺の心臓を・・・魂をあんたにあげる・・・・全部、あんたのものだ・・・・あんたがいなかったら・・・・俺は生きている意味なんて無いんだ・・・」

俺の全てであんたを繋ぐ。

血の滴る指先をイルカの口に含ませながら、俺は天に向かって唾を吐いた。

この人を連れて行かせない。
10年でも20年でも俺の命なんて好きなだけくれてやる。
どうしてもというなら、この命の代わりに俺を連れて行くがいい。

「俺は・・・あんたの命なんて、いらない・・・・」

イルカの言葉を俺は口付けで塞いだ。最後かもしれない口付けを優しく。
俺は素早く印を組み始めた。

それでももし。もしこの術がうまくいったら。俺とイルカが生き延びる事ができたら。

「この術は俺からもあんたからも・・・お互いの記憶を奪うかもしれない・・・・どうか忘れないでいて?たとえ全ての記憶を失ったとしても・・・絶対に、俺はあんたに辿り着くから・・・」

そうだ、俺は絶対に辿り着く。たとえ記憶を失っても、俺の中にはイルカしかないのだから。すぐに分かる。
全ての過ちを埋め合わせることができるのか分からないが、もしもイルカが許してくれたら。その時は間違えないようにしたい。今度こそ。

鞭打つ手を優しく抱き締める腕に代え、
足りなかった言葉を過剰なほど並べたてて。

涙に濡れる顔を笑顔に変えたい。

そして今度こそ伝えたい。言葉にできなかったこの思いを。

 

好きだ。

 

 

その後へ