(38)
イルカは国境沿いの道を急いでいた。
戦火は何時の間にか火の国の国境際まで迫っていたのだ。国内の動揺を招かぬようその事実は伏せられていたが、敵の侵攻を防ごうと国境際の攻防は熾烈を極めているという。今は木の葉優勢のその戦線も、僅か針の目ほどの一穴が穿たれただけで戦況は逆転するだろうと火影は告げた。雪崩れ込む敵とともに戦火は国内に飛火し国は弱体化する。九年前の大戦争の時のように。何としても食い止めねばならない状況なのだと。あの状態のカカシを頭数に入れねばならないほど逼迫しているのだと。
あれからどれくらい走ったんだろう。
走り出した時はまだ薄暗かった空は、頂点への軌道を緩やかに進む太陽の光に明るく色づいていた。しかし懸命に走っても追いつきたい背中は見えてこなかった。イルカの足は既に限界を超え、地を蹴る感覚すら失っていた。荒い息に激しく上下する胸が上手く酸素を取り込めずに苦痛を訴える。
これ以上の速さで進んだというのか、あんな状態で。
イルカは焦燥に苛々と唇を噛んだ。それでもカカシは平然とそれを受け入れたに違いない。過去においてもそうだった。どんなに無茶な状況でもカカシにとってはまるで関係ないようだった。そう、カカシはいつも頓着していなかったのだ。自分の命に。生きるという事に、これっぽちも。
カカシも知っておる・・・自分の寿命がもうすぐ尽きる事を・・・今回が最後になるだろう事を・・・
イルカは火影の言葉を思い浮かべて思わず顔を歪めた。
あの人は死ぬつもりだったのだ・・・生きて帰ると平気で嘘をつきながら・・・本当は・・・
込み上げてくるものを奥歯をきつく噛み締める事によって辛うじて堪えると、イルカは踏み出す足に力を込めた。かつてカカシはいつも死にたがっていた。取り巻く世界が変わらぬ以上その死への憧憬は今もカカシを捕らえているのだろう。かつて知らずに自分は引き止めてしまった。しかし今度は確かな自分の意思を以ってその命を手繰り寄せる。それはカカシにとって残酷な事なのかもしれない。
だけど。あの時カカシは言ったのだ。
俺の心臓を・・・魂をあんたにあげる・・・全部、あんたのものだ・・・
だから全部俺のものだ。
あんたの好きになんてさせない。
イルカは疾走する速度を緩めず夢中になって走り続けた。その時前方に明るい空を覆うように黒煙が棚引くのが見えた。
イルカは辿り着いた戦場を前にして、言葉を失ったまま呆然と立ち尽くしていた。
足元には折り重なるようにして倒れた夥しいほどの屍が大地を赤く染めていた。硝煙の臭いとともに風に舞う血が濃厚な死の臭いを運んでくる。かつて敵であったものも味方であったものも。今はただの肉塊と化し、その中に動く影を見つけることはできなかった。その屍を狙い頭上で旋回する鳥の群れを除いては。
静まり返った戦場で、はあはあという自分の激しい息遣いだけが響いていた。
未明に既に戦いがあったのだと状況が告げていた。この戦線は一体どうなったのだろうか。生き残ったものはいるのだろうか。
カカシは何処に行ったのだろうか。
イルカは震える足取りでその屍の山に分け入った。全部確かめるつもりだった。夥しいほどの屍を全部。それが徒労に終る事を祈りながら。その時極みに達した太陽が空を覆う黒煙の隙間から顔を出し、一瞬戦場を照らした。
きらり、と。
きらりとイルカの視界で何かが陽の光を弾いた。
イルカは覚束無い足取りで、しかし真っ直ぐにそれに向かって歩いた。
すぐに分かった。
陽の光を弾いていたのは銀の髪だと。
すぐに。
「カカシ先生・・・・」
イルカは大地に身を横たえるカカシの傍らにがくりと膝をついた。カカシは目を閉じイルカの呼びかけに答える気配すらも無い。額から、口の端から。そしてその体を大きく引き裂いた傷跡から零れ落ちる鮮血が、カカシを赤く濡らしていた。
俺は・・・間に合わなかったのだろうか・・・
確かめようと伸ばした指先が大きく震えて、上手く動かす事ができない。怖かった。それを知ってしまうことが。急にぼやけた視界に流れるように血の赤が滲む。泣いているのだと気付いてイルカは狼狽した。
まだ決まったわけではないのに。俺は何をしているんだ・・・
震える手がようやくカカシの心臓の上に届いた時、イルカの瞳から零れた滴がカカシの頬を濡らした。
とくん。
手のひらから微かに伝わるその鼓動とともに、カカシがゆっくりと、僅かに重い目蓋を開けた。
「あん、たは・・・いつも・・・泣いて・・る・・・・」
カカシは苦しげな息遣いをしながら途切れ途切れに小さく呟いた。その目が一瞬笑うように弓形に眇められるのを見て、イルカは込み上げてくる思いにどうしようもなく胸が震えるのを感じた。声を上げて泣いてしまいたかった。今すぐにでもここで。大声を上げて。泣いてしまいたかった。
だがそんな時間は許されていなかった。
今留まっている命はすぐに費える事が分かっていた。
イルカは零れ落ちる涙を乱暴に拭った。
「一人で勝手に楽になるなんて許さない・・・あんたは俺に償わなくちゃいけない・・・・」
言いながらイルカは迷いのない手つきで小刀を取り出した。光を失いつつある淀んだ色をしたカカシの瞳に、小刀の刃の輝きが映って瞬いていた。
その輝きは数分後に本物となる。
イルカは薄く笑って一瞬の躊躇もなく自分の左手の薬指を切り落とした。
かつてカカシがしたように。心臓に繋がるその指先を。
憎しみも愛しさも。
俺の心の繋がる先は一つだ。
一つしかない。
俺の心にはあんたの事しか。
だから。
「生きて・・・生き延びて、俺に償え・・・!」
イルカは血の滴る指先をカカシの唇に含ませた。
そして心臓から。心から。迸るこの思いをあんたは受け止めねばならない。
「あんたの命は俺のものだ。」
今からイルカが行おうとしている事を悟って、カカシはハッとした様な顔をした。その唇が戦慄いたように震え、イルカの傷ついた指先に請うように、愛しむようにそっと触れた。
「俺は・・・忘れたくない・・・な・・・」
少しだけ笑みを作ったカカシの瞳から溜まっていた涙が頬の上を滑り落ちた。
「あんたの言う事なんて、聞かない」
イルカは短く言って、カカシの言葉の抵抗を遮るように唇を重ねた。羽根のように優しくなんてない。激しい口付けだった。全てを絡め取るように舌を突き入れ激しく啜った。
俺があんたを繋ぎとめる。
イルカは唇を離すと慎重に素早く印を組み始めた。
たとえあんたが忘れても。俺が忘れてしまっても。
今度は俺が絶対辿り着く。
あんたに辿り着いてみせる。
最後の印を組み終わった時、閃光に包まれながらイルカは小さく笑った。
十年二十年。どれくらいの寿命が代償となるのか分からない。上手くいくのかさえも。
だが何も怖くはなかった。
命を分け与えられたあの日から。
二人の心臓は一つなのだ。憎しみも愛しさも分け合って生きていく。
離れては生きていけない。比翼連理のように。
何度忘れても鼓動が呼ぶ。欠けた指先が指し示す。
きっと辿り着く。
だから何も恐れることはない。
この世界で。
君だけが望む全てだから。
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