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明かりを落とした部屋の中でイルカはベッドの上に横たわっていた。目を瞑れども高ぶった神経は眠りを求めず、イルカは何度も悪戯に寝返りを打った。窓の外ではまだ朝の光の前兆さえ感じさせない夜の闇が空を支配していた。その深き闇に自分の周りにもう光は訪れないような錯覚に陥りながら、イルカはその感傷に薄く笑った。

ごめんね

カカシの言葉が頭から離れなかった。
そんな簡単な言葉で片付けられるような過去ではなかった。
悪戯けた事をと憤りのままに詰ってやりたかった。

それなのに。

言葉に、ならなかった。

胸が震えていた。どうしようもなく。熱く。
泣き出してしまいそうだった。子供のように声を上げて。

その時気付いてしまった。

俺は待っていたのだ。
過去にカカシが何かを言いたそうに俺を見詰めていた時も。ずっと、待っていたのだ。

たったそれだけの言葉を、ずっと。

許せる筈がないと思いながら。俺は思っていたのだ。

許したい、と。

心の何処かでずっと。

「う・・・ぅっ・・・・く・・・・っ」

イルカは嗚咽を上げながら堪らずにカカシの名前を何度も心の中で叫んでいた。

薄っすらと明け行く空の光が窓を明るくする。何時の間にか訪れた朝に闇は拭われ空には柔かな光が満ちていた。

 

 

イルカは夜明けとともに家を飛び出していた。カカシの姿を探していた。カカシの家なんて知らなかった。思いつく場所といったら一つだけだ。イルカは躊躇うことなく木の葉病院へ向かっていた。そこに既にカカシはいないだろうと感じていながらも、自分の打ちつけた傷の深さにひょっとしたらと僅かな可能性に縋る。どんなくだらない可能性も看過することはできなかった。病院に辿り着くと、イルカは真っ直ぐにカカシの病室に向かった。病院の廊下を走るイルカに後方から看護婦の窘める声が響く。だが構ってなどいられなかった。イルカはようやくカカシの病室の前まで来ると、そのドアノブに手をかけようとして一瞬躊躇したようにその動きを止めた。

もう自分から開ける事はないだろうと思っていた・・・・自分からは、決して・・・・。

イルカ先生、とあの時のように扉の向こうから声は聞こえない。その気配すら感じる事は出来ない。

・・・ 俺は・・・遅過ぎたんだろうか・・・・

それでもイルカは深く息を吸ってゆっくりとドアノブに手をかけた。無駄だと分かっていても確かめずにはいられなかった。扉の向こうの主を失ったがらんとした空間を思って手が小刻みに震えていた。
イルカがその手を叱咤しながらそっと扉を開くのとその声が届くのとはほぼ同時の事だった。

「イルカよ、もうそこにカカシは居らん。」

思わず振り返った視線の先に火影が立っていた。火影は呆然とするイルカの側にカツカツと近寄りながら言った。

「カカシは一刻前任務に出立した・・・・」

「火影様・・・・、」

物問いたげなイルカを制して火影は先を続けた。苦渋に満ちた顔をしていた。その顔は九年前の戦乱期に倦み疲れていた火影の顔を彷彿させた。

「イルカよ・・・覚悟をしておけ。カカシはもう戻っては来れまい・・・・」

カカシはもう戻っては来れまい

火影の言葉にイルカは今更ながらに激しい衝撃を受けた。心臓が一瞬止まってしまったかのように感じた。すぐに動き出した心臓は今度はがなり立てるように煩く激しく脈打ち、イルカの呼吸をままならないものにした。カカシの生還の可能性が低い事を漠然と感じていた。しかし今それを火影が口にすることによって、漠然とした不安は急に確かな形を持った現実となった。

カカシの死を明言されたようなものだった。

イルカは堪らない気持ちになった。憤怒のような感情が胸に押し寄せてくる。それは里に対するものなのか自分に対するものなのか、よく分からなかった。

「あんな状態で・・・まともに戦えるはずがない・・・・!犬死だと分かっていた筈です・・・・どうしてこんな・・・・っ」

里の最高権力者に臆することなく詰め寄るイルカに、火影は首を横に振って諭すような声音で言った。

「同じじゃ、イルカよ・・・たとえ里におってもカカシは何れ死ぬ・・・・カカシは命の灯火が消えかかっておるのじゃ。」

イルカはその言葉にびくりと大袈裟なほど体を震わせた。

命の灯火が消えかかっている・・・?カカシ先生の・・・?

「あれから儂も数ある禁術書を紐解き・・・カカシの容態解明に尽力したが・・・・分かったのはカカシの命は蝋燭に灯された火のようなものだという事だけじゃ・・・風が吹けば細くなり暫く揺らいではまた太くなる・・・この前の任務で消えかけた命の火は何とかまた持ち直した・・・しかし元には戻らなかった。それは何故か・・・?火の灯されている蝋燭自体が燃え尽きようとしているからじゃ・・・・寿命という奴じゃ・・・それを引き止める術を儂は持たん・・・カカシはそれを知っておる・・・」

イルカは火影の言葉をただ呆然と聞いていた。

何だって?と問い返したかった。誰が何を知っているって?

イルカの心の声が聞こえたように火影はもう一度言った。

「カカシも知っておる・・・自分の寿命がもうすぐ尽きる事を・・・今回が最後になるだろう事を・・・全て・・・」

 

 

そんな事をしてはいけないと自戒する理性は残っていなかった。馬鹿な事をしているという自覚さえも。
追って来る火影の声を振り切って、イルカは立ち入りが禁止されている禁術書保管庫まで朝靄の立ち込める街を走り抜けた。乳白色をした靄は街の輪郭を隠し、何処を走っているのかさえ覚束無い。それは何処かあの日と似ていた。
雪に覆われた世界に立ち込める濃霧が、天と地の境目を隠していたあの日の朝と。
あの時も何処を歩いているのか分からなかった。何処へ行こうとしているのかも全く。
何もかも曖昧な世界で、唯一確かだったのは手だけだった。

俺の手を引くカカシの。

イルカは走りながらその時の事を思った。

カカシは時には足を止め、覚束無い足取りの自分を振り返り。
指を絡ませるようにして、強く手を握った。離れないようにと強く。
その時の手の、温かさを。

唯一確かなものだったカカシの手は今はもうない。だがイルカは迷わなかった。

自分を導く確かなものが心の中にあった。

 

 

イルカは辿り着いた禁術書保管庫の封印の札を無造作に破り、すぐさま中に入り込んでその棚を漁った。直に見張り番や火影がやって来るだろう。その前に見つけなければならない。イルカは禁術書を紐解いては、用無しと分かると乱雑にその場に投げ捨てた。探し出すのは然程難しくないはずだった。火影と違い、カカシが使った禁術が反魂の外法の一つだと知っていた。そしてイルカは覚えていた。光を失っていく網膜にそれは焼き付いていた。だがそれは9年前の記憶だ。もう一度だけ確かめておきたかった。失敗は許されないのだから。

まずは酉・・・・

イルカは自分の記憶を辿りながら、禁術書を広げては忙しなく目を走らせた。

そして亥・・・辰・・・・あった・・・これだ・・・!

イルカは震える自分の指で印を組みながらもう一度その術式を頭に叩き込む。
その時保管庫の扉が開いて薄暗い部屋に光が差した。イルカはハッとして一歩退いて身構えた。

「イルカ・・・・」

追いついた火影がまさかという驚愕の表情をしてそこに立っていた。

「お前は・・・・記憶が戻っておったのか・・・・」

火影の言葉にイルカは目を逸らすことなくゆっくりと頷いた。火影はカカシを助けたがっていた。ひょっとしたら分かってくれるかもしれない。イルカは禁忌を犯した自分を里長が許すはずは無いと思いながらも、一縷の望みをかけて膝を折った。

「火影様・・・お願いです・・・俺をカカシ先生のところへ行かせてください・・・お願いします・・・・!」

イルカは真剣な眼差しで火影に訴えると、その額を地面にこすりつけた。

「行ってどうするというのだ・・・・」

火影はイルカが手にしていた禁術書を拾い、サッと目を走らせると僅かに眉を顰めた。

「もう手遅れじゃ・・・」

「いいえ、火影様」

イルカは顔を上げて曇りの無い強い瞳をして言った。

「俺は間に合ってみせます。」

嘘じゃなかった。はったりでも何でも。何に代えてもイルカは間に合ってみせるつもりだった。
馬鹿な事を、と火影は独り言のように小さく呟きながらも、暫しの逡巡の後首を縦に振った。

「ならば行くがよい」

火影がカカシの行き先を告げるとイルカは黙礼をして、放たれた矢の如く火影の傍らを通り過ぎて行った。
火影はゆっくりと振り返って小さくなるその後姿を見遣った。

過去の記憶が戻っても戻らなくても。カカシにはイルカしかない事がわかっていた。
過去に一度引き離した時、イルカがいないのならば生きている意味がないと、病院のベッドの上で己の体に刃を突き立てた。
その時に初めて里がカカシに強いてきた残酷さを痛感した。カカシはずっと死にたがっていたのだと気付いた。そして本当にイルカを求めているのだとも。憐れだった。

だがイルカは違う。壮絶すぎる過去はきっと現在をも支配する。記憶が戻った時に待っているのはカカシにたいする憎悪にちがいないと思っていた。しかしイルカも同じだったのだ。カカシと同じように相手を求めていた。命を賭して追いかけるほどに。

火影は手にした禁術書をじっと見詰めた。

カカシが使った反魂の外法は本当ならばこうまでして術者の命を不安定に揺らすものではない。ただこの禁術自体が不安定で難しく、何の支障もなくうまくいく事の方が稀なのだ。

それを知っていても尚カカシは使ったのだろう。
イルカを引き止めるために。

そしてイルカも。

火影は静かに目を閉じた。

うまくいくかはわからない。間に合うのかさえも。
だが離れまいと呼び合う魂を誰が止める事ができようか。

 「仕方が無いの・・・」

小さく独り言ちた火影の口元が緩い笑みを作った。

 

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