(36)
言ってしまってから、イルカは己の言葉に体を戦慄かせた。なんて事をと激しく後悔しながらも、心の内側に塞き止めていたものが後悔をも呑み込む奔流となって急速に溢れ出すのを感じた。
これ以上言っては駄目だ・・・・!
イルカは奥歯を噛み締めて、迸り出そうになる言葉を必死で堪えた。イルカは乱れる呼吸に苦しげな息を吐きながら、顔を伏せて蹲ったままでいた。
やり過ごさなければ。
そう思うのに、再び伸びてきたカカシの手が躊躇いがちにイルカの背中を擦ると、遂に我慢できなくなった。
「大丈夫ですか・・・?」
気遣うような優しいカカシの声にかつてのカカシの姿が重なる。
肉の裂けるほど鞭打ち、息も絶え絶えの俺を組み敷きながら。
俺にまっさらな包帯を巻き、大丈夫かと薬を含ませる。その指先で優しく俺の髪を梳いて。
痛いかと、俺に。
勝手なことを。
イルカの瞳からボロボロと涙が零れた。その涙も拭わぬままイルカはすぐさま立ち上がると、カカシの手から逃げるようにして後退さった。
「俺に、触るな・・・・!」
「イルカ先生・・・」
唸るイルカにしかしカカシは臆せずに、ゆっくりと一歩足を前に踏み出す。カカシの瞳が戸惑いに揺れながらも、イルカの真意を測ろうと確固たる意思を以ってイルカを射抜く。その眼差しを憎しみを宿した瞳で受け止めながら、僅かに詰まる距離すら許さずに、イルカもまた一歩退いた。
過去と現在とが境界を失くしていた。
「九年前・・・あんたは俺から全てを奪った・・・・!」
叫んでいるのは過去の自分なのか。今の自分なのか。イルカ自身も分からなかった。だが叫ばずにはいられなかった。
「ちっぽけな自尊心の欠片すら許さず・・・・暴力と権力とで俺を捻じ伏せ、陵辱の限りを尽くした・・・まるで虫けらのように俺を・・・っ・・・俺の友達の命さえも・・・・!」
言葉とともにイルカの脳裏に凄惨な過去が鮮明に浮かぶ。九年という長い歳月を経ても、その屈辱と絶望は少しも色褪せる事はなかった。
なかった事になど出来なかった。そんな事到底無理だったんだ。
憎しみに燃え盛るイルカの瞳がカカシの姿を映す。目の中のカカシは表情の抜け落ちた顔をしていた。
だけど色違いの双眸だけが。
まるで寄る辺のない子供のように。
縋るように揺れて。
瞬間イルカは酷い苛立ちを感じた。同時に胸を裂くような痛みも。イルカは呻き声を上げながら、そのあまりの苦痛に思わずぎゅっと胸を鷲掴んだ。
どうしていつもいつも・・・あんたはそんな顔をするんだ・・・!
そんな顔をしても駄目だ・・・俺はあんたを・・・
込み上げる嗚咽もそのままにイルカは叫んでいた。
「あんたが・・・何も覚えていなくても・・・」
震える唇で、しかしはっきりと。
「俺は・・・あんたを許せない・・・・」
カカシを拒絶する言葉を。
その瞬間黙っていたカカシの体が大きく戦慄いた。
「イルカ先生・・・」
震える足取りでカカシは二歩、三歩と急速にイルカに詰め寄った。イルカはハッとして素早く後退さったが、それは逃げ場のない壁際へと自分を追い込むことでもあった。どんどん近付いてくるカカシに、遂にはイルカの背がどんと壁に行き当たる。恐慌を来たすイルカの手が、偶然壁に立てかけてあった長刀に触れた。
一瞬たりとも迷わなかった。
「俺に近付くな・・・・!」
咄嗟にイルカは長刀を握ると、鞘を抜く余裕もないまま振り上げていた。
「それ以上・・・近寄るな・・・」
威嚇するように吐き捨てながらカカシを睨み付ける。刀を握るイルカの手は小刻みに震えていた。
しかしカカシはその警告を無視した。イルカの瞳を見詰めながら、ゆっくりと大きく一歩前へ踏み出す。
「来るな・・・!」
イルカは思わず夢中になって刀を振り下ろしていた。
ビシ・・・ッ
振り下ろした刀の先が容赦なくカカシの左肩を叩いた。刀から伝わる肉を打つ振動に、イルカはビクリと体を大きく震わせた。
一瞬苦痛に顔を歪めながらも、カカシはまた一歩イルカに近付いた。イルカは恐れ戦きながらも、詰まる距離に焦燥してまた刀を振り下ろした。今度は刀はカカシのこめかみを掠り、柔かな肌は裂けて血を吹いた。
それでもカカシはまた一歩踏み出す。
イルカに向かって。
一歩。また一歩と。
決してその足を止めずに。
「やめろ・・・来るな・・・っ」
やめてくれ。
イルカは心の中で悲鳴を上げた。何度か刀を振り下ろした。振り下ろしながら胸が痛くて堪らなかった。胸だけじゃない。全てが。全てが痛くて。体がばらばらに砕け散ってしまいそうだった。
やめろ・・・やめてくれ・・・・!!
カカシに向かって叫んでいたのではなかった。イルカは自分に向かって叫んでいた。その手を止めてくれと。これ以上カカシを打たないでくれと。
俺は・・・本当は・・・
「うぅ・・・くっ・・・」
溢れる涙にイルカは視界を塞がれた。もうカカシの姿が見えなかった。見えなくて、刀を振り下ろす事もできない。震えるイルカの手が力を失って、かたりと長刀を落とした。
その瞬間、辿り着いたカカシがイルカを抱き締めた。震えるイルカの体を優しく、その腕に大切に包み込むようにして。
ごめんね
カカシは耳元で囁くとそっと体を離した。そしてそのまま踵を返すと静かにイルカの家を出て行った。
イルカの家の床に、そして畳の上に。カカシの流した血の跡が点々と続いていた。その血の跡にイルカはどうしようもなく涙が零れた。
「カカシ先生・・・!」
イルカは力の入らない体を叱咤しながら、家を飛び出した。ぼやけた視界はカカシの後姿を捉えることはできなかった。
米噛みから伝い落ちる血が俯くカカシの頬を伝って口元を濡らす。
微かな鉄錆の味を感じながらカカシは親指の腹で血をぬぐった。
イルカに打たれた肩が、腕が、腹が。そして裂けた傷跡がズキズキと痛みを訴えていた。
カカシは血を拭った指先にそっと口付けた。
これはイルカの流した血だ。
カカシは思った。
この痛みはイルカの受けた痛みなのだ。
血を流しているのは俺じゃない。
痛いと感じているのは俺では。
カカシは血で汚れた指先に宥めるように何度も唇を押し当てた。
口付けているのはイルカの心だった。今尚血を流し続けているイルカの。
思い通りにならない体は高々数度打ちつけられた位で泣き言を言っていた。揺らぐ足元を叱咤しながらカカシは自嘲した。
記憶はないが、イルカと自分との間に過去に何かあったのではないかと薄々気付いていた。何か歓迎されざる過去が。
毎晩のように見る残酷な夢に。
それは現実であるかのように鮮明で、常に痛みと絶望を伴った。その度毎に自分に言い聞かせた。これは夢で現実ではないのだと。しかし火影に過去に使った禁術が自分の体の異変を引き起こしていると告げられた時、イルカとの過去を知った。火影は過去のカカシとイルカとの関係を多くは語らず、カカシ自身もまた訊かなかった。訊くのが怖かった。
本当は訊かなくても分かっていたのだ。心の何処かで。だけど信じられなかった。信じたくなかった。
イルカが俺を許さないという事を。
夢だったらと思った。だが夢ではなかった。イルカは全てを思い出していたのだ。全てが現実だったのだ。
俺が傷つけた。あの人に、深い傷を。
カカシは憎しみに燃えるイルカの瞳を、絶望の涙を思い出していた。自分の存在がイルカの傷跡を残酷に抉る。その事実に痛む胸を押さえながらも、カカシは何処か安堵していた。
俺はもう戻って来れないだろう。
だからこれ以上あの人を苦しめる事はない。
もう・・・苦しめたくない。
伝い落ちる血に誓うかのように、カカシはもう一度指先に口付けた。
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