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「今すぐお茶を入れますから、」

言いながらイルカが玄関の鍵を閉めていると、その時間すら惜しむようにカカシが背後からイルカを抱き締めた。

「お茶はいいです・・・」

耳元で掠れた声で囁かれてイルカは思わず身を震わせた。背中に押し付けられたカカシの胸が早鐘を打っている。それがイルカの胸にも伝染して、互いの激しく脈打つ鼓動がまるで一つのもののように重なって聞こえた。密着した部分から伝わるカカシの熱にイルカ自身も熱い高ぶりを感じながらも、一方では冷徹な瞳がそんな自分を蔑むように見詰めていた。
ここまで来てまだ迷っていた。自分から引き止め、家にまで上げておいて。
カカシの唇がイルカの項にそっと落ちると、甘美な震えとともに虫唾が走る思いがした。

今更俺は何を考えているんだ・・・・

イルカは次々に首筋に落ちてくる口付けから逃げるようにして、

「ちょ、ちょっと待ってください、いきなりこんなのずるいですよ。絶対・・・少し話をさせてください・・・カ、カカシ先生・・・体の調子はどうなんですか・・・?」

惑う心がこの後に待っている事を先延ばしにする。しかし少し話をしたいのも事実だった。イルカはこの十日間あまりカカシを見舞いに行っていないので、その回復の度合いが分からなかった。

以前のように動く事はできるんだろうか。さっきは足元が覚束無い様子に見えたけど・・・

憂慮に満ちた視線を背中に向けると、カカシが優しい笑顔で応えた。だけどその笑顔が何処か薄ぼけて見えてイルカは不安になった。できるならカカシが赴く戦線の状況も知りたかった。その任務内容を知るのは無理にしても。屍の積み重なる鬼哭啾啾とした激戦区であるのか、それよりはちょっとはマシな戦場なのか。

そしてカカシは約束してくれるのか。
絶対に帰って来ると。

「大丈夫ですよ、」

イルカの心を見透かしたかのようにカカシが続けた。

「俺の体もあれからかなり復調したんです・・・イルカ先生にも見てもらいたかったけど・・・」

言われてドキリと胸が跳ねた。カカシの瞳が無言のままイルカに問いかけていた。

どうして来てくれなかったの?

真っ直ぐなカカシの瞳を見ていられなくてイルカは思わず目を伏せた。何と答えたらいいのか。上手く説明できる自信がなかった。説明するつもりもなかった。それはイルカだけが心の中で昇華させなければいけないものだ。イルカは目を伏せたまま、誤魔化しと真実とが綯い交ぜになった言葉を告げた。

「俺は臆病で・・・現実に向き合うのが怖かったんです・・・」

過去にカカシに打擲され蹂躙された事実に向き合うことが。

「カカシ先生を・・・失くしてしまう気がして・・・」

甦る記憶とともに猛る憎悪が、愛しいという思いさえも呑み込んでしまうような気がして。

でも。

「絶対に・・・生きて帰って来ると約束してください・・・」

俺はもう決めたのだ。凄惨な過去は自分の心の中だけに留め、目の前のこの優しい人を愛そうと。
記憶のないこの人に贖いを求めても何の解決にもならない。

この人は過去のカカシとは違う。俺がその償いを求めている相手は過去のカカシだ。

そう自分に言い聞かせながらも、果たして償いを求めたところで。過去のカカシが跪き地面に額を擦り付けて謝ったところで。自分は許すことが出来るのだろうかとイルカは訝しんだ。分からなかった。自分の心なのに何一つはっきりと言い切ることが出来ない。今も揺れている。愛しい人との別れ際だというのに、心を決めたと思う今でも。

何処か酷く間違っている気がして。

カカシはイルカの言葉に僅かに眉を寄せて、苦しいような切ないような吐息をはいた。抱き締めていた手を離して、そっとイルカの頬に触れる。決してイルカの視線を逸らさせないように逃げ場を塞いでカカシは言った。

「好きです、イルカ先生・・・・」

カカシの晒された青い瞳が深い色を湛えて揺れていた。

「愛してます・・・」

嬉しい筈のその言葉にイルカは胸が痛んだ。どうしてなのか痛くてたまらなかった。あまりに痛くて泣きそうになる。カカシの瞳から逃れたいのにカカシの手に阻まれて、瞳を逸らす事ができない。

「イルカ先生の気持ちも聞かせて・・・あんたが言ってくれたら・・・必ず帰って来る・・・あんたの心をお守りにして・・・どんなところからも必ず・・・・」

イルカはその言葉に、まだ自分がはっきりとカカシに思いを伝えていなかった事に気付いた。返事を強請るカカシの瞳が、何処か不安げで心許ない。

ああ、この顔を見た事がある・・・

イルカは重なる表情に顔を歪めた。

この寄る辺のない子供のように泣きそうな表情を・・・あの時も・・・・

イルカは戦慄きながら必死で叫んでしまいそうになる思いを遣り込めた。

違う・・・目の前のカカシ先生は・・・過去のカカシとは違う・・・違うんだ・・・・!!

「俺は・・・カカシ先生のことが・・・」

イルカは言葉を詰まらせながらも今度ははっきりと言った。自分の迷いに決別するように。

「好きです・・・」

言ってしまった後で大きく体が震えた。その瞬間何か恐ろしい過ちを犯してしまったかのような気がしていた。
どうしてだか分からないけれど、自然と涙が零れた。一体何のための涙なのか。

「イルカ先生・・・」

カカシは熱っぽく囁きながら性急に唇を重ねてきた。何度も深く重ねては舌を絡ませる。そして時々口付けの合間に、零れたまま止まらないイルカの涙をその舌先で舐め上げた。優しく愛しげに。涙の一滴すら惜しむように。イルカはそれに陶然としながらも、その歓喜の波に全てを委ねられないでいた。

「好き・・・イルカ先生・・・」

カカシはイルカの目元に口付けながら囁いた。

「あんたの涙はまるで太陽の零した涙ですね・・・お日様の臭いがする・・・」

イルカは瞬間雷に打たれたかのように、ビクリと大袈裟に体を震わせた。それはかつてカカシがイルカの涙を舐めながらよく口にした言葉だった。
暴力と陵辱に涙するイルカに、恍惚とした顔をして。
お日様の臭いがすると。

目の前にいるカカシはあのカカシだ・・・同じ・・・カカシなんだ・・・・

過去のカカシと今のカカシと。
イルカの中で切り離されていた存在が同一線上に並んだ。

どちらも同じはたけカカシで、何等変わりはないのだ。

突然心の中に落ちてきた事実に、イルカは吐き気を抑えられなかった。

「う・・・ぐ・・・っ」

カカシの体を押し離して、イルカは思わずその場で競りあがってきたものを嘔吐していた。消化して何も入っていない胃からは胃液しか吐き出されなかった。しかし何度も何度も吐いた。吐き出す胃液すらなくなっても吐き気は止まらなかった。

「イルカ先生、大丈夫・・・!?」

驚いたカカシがイルカの背中を少しでも楽なようにと擦る。イルカは苦しげな息を吐きながら、その手をばしりと振り払った。その振る舞いにカカシだけではなくイルカ自身も恐れ戦く。

言ってはいけない。言っては駄目だ・・・!

焦る心とは裏腹に口は勝手に叫んでいた。

「俺に・・・触るな・・・!」

 

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