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ここまで歩いてきたのか・・・体の具合は大丈夫なんだろうか・・・・

沸々と湧き上る思いに、イルカはすぐさま扉に駆け寄って鍵を開けたい衝動に駆られた。元気な姿が見たい。その姿に再び死線から戻ってくる希望を少しでも見出したい。何よりもこれから修羅の世界に向かうカカシに少しでも安寧を与えたい。

そして必ず帰って来ると約束を。
その場限りの気休めなんかじゃない、確かな約束を。

これで最後にしたくない・・・!

イルカは腰を上げると、急いで玄関口に駆け寄った。夢中で施錠された鍵に手をかける。ひんやりとした金属の感触に指先を震わせながらも、イルカはガチャリと鍵を開けた。その音にハッとして瞬間縮こまる。鍵を開けた途端、焦がれていたかのように勢いよく扉が開いた。それを呆けたように見詰めながら、イルカは恐れ戦いていた。

俺は・・・俺はまだ・・・自分が分からない・・・・
俺は本当にカカシ先生を受け入れられるのか・・・?

この期に及んでも混迷を見せる心をイルカはどうする事もできなかった。そんなイルカの躊躇いに応えたかのように、玄関の扉はガシャン、と派手な音を立てて僅かな隙間を作ったままで止まってしまった。鍵は開けたがチェーンを外していなかったのだ。

「イルカ先生、チェーンも外してくれませんか。」

これじゃあ入れないんですけど、と少しおどけたような笑みを含んだカカシの声が聞こえる。扉の僅かな隙間から、パチパチと音を立てる蛍光灯に照らされて銀髪の痩躯が顔を覗かせていた。久し振りに見るカカシは以前と何等変わりもなく、忍服に身を包んでいた。そして自分の足でちゃんと立って、猫のように目を眇めて笑っている。優しく、自分を見詰めている。

俺の好きなカカシ先生だ。

イルカは思いながらも泣きそうに顔が歪むのが分かった。慌てて顔を俯けると同時に半歩退く。その間もカカシは優しくイルカの名を呼んだ。

「イルカ先生、」

ちょっと困ったような様子で強請るように。

「イルカ先生・・・・」

チェーンくらい、カカシだったら自分で容易く外す事ができる。だがカカシはイルカがそれを外す事を待っていた。突然カカシの元を訪れなくなったイルカに、カカシも何か感じているのだろう。以前と同じような態度でいて、何処となく躊躇うような何かを推し量るような、不安げな様子が伝わってくる。

早く開けなくちゃ。

そう思うのにイルカは俯いたまま、動く事ができない。

早く・・・早く開けなくちゃカカシ先生が・・・・

「イルカ先生、」

扉の向こうでカカシがその場にそぐわない明るい調子で言った。

「会えて、よかったです。」

えっと思ってイルカが顔を上げた瞬間、イルカの目の前で僅かに開いていた扉がパタンと静かな音を立てて閉まった。何が起こったのかすぐには理解できなかった。しかし惑うことなく遠退いていく気配に、イルカは呆然としながらも体を震わせた。

カカシ先生が行ってしまう・・・・もう会えないかもしれないのに・・・・
俺は何て馬鹿なことを・・・・!!

「カカシ先生!」

イルカは震えて力の入らない足元を叱咤しながら、急いでチェーンを外し、カカシの後を追いかけた。忙しくめぐらせた視界の端に、少し離れた道を行くカカシの後姿を捉えた。その足取りが何処か覚束無い様子で、イルカは胸をひやりとさせた。こんな風に歩いているだけで、今のカカシには体の負担なんじゃないだろうか。そんな不安がイルカの心を埋め尽くしていく。

「カカシ先生!!」

夜中の近所迷惑も忘れ、イルカはあらん限りの大声を張り上げながらアパートの階段を駆け下りる。老朽化した階段は乱暴にイルカに踏みつけられて、抗議の声を上げるようにぎしぎしと耳障りな音を立てていた。猫背の丸まった背中がイルカの声に足を止め、ゆっくりと振り返る。

「イルカ先生、追いかけてきてくれたの・・・?」

そう言いながら浮かべた笑顔が子供のようだった。

純粋な喜びを露わにしながら、だけど何処か寂しげで、何て痛い。

その痛みに胸を貫かれてイルカは言葉を失った。言いたい事は沢山あった筈なのに、込み上げてきた感情に胸を塞がれて何一つ言葉にすることが出来ない。言葉にならない感情は後から後から込み上げてきて、遂にイルカの瞳から溢れ出した。

この人は何も知らないのに。俺は何て残酷な事を。

カカシは少し困ったような、何処か泣きそうな顔をしながらイルカの頬を流れる涙を指先で拭った。その指先の動きはぎこちなく、微かに震えていた。

「・・・・抱き締めてもいいですか・・・・?」

カカシが控えめな様子でイルカに尋ねる。いつも強引なカカシらしくない。

それほど俺はこの人を傷つけてしまったのだ。この、愛しい人を。

イルカは返事をせずに、自分から震える腕を伸ばしてカカシの体を掻き抱いた。すぐにカカシの腕がイルカの背中に回り、痛いほど締め付ける。カカシは震えていた。いや、震えていたのは自分だったのかもしれない。カカシの体温を感じながら、イルカは恍惚とともにまた別の全く違った感情が押し寄せてくるのを必死で遣り込めていた。

俺が忘れればいいんだ・・・俺が忘れれば・・・・
俺は全てを忘れた振りをして、この優しい人を愛したい。
今目の前にいるカカシはあの時のカカシとは違う。

俺の好きになったカカシだ。

イルカは回した腕に力を入れながら、そっと囁いた。

「うちに、あがっていってください・・・」

 

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