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今日で何日目だろう。

イルカはぼんやりと壁に掛かったカレンダーに視線を投げかけた。あれから。カカシと甘やかな口付けを交わしながらも、甦る凄惨な記憶に逃げるようにして病室を後にしたあの日から。イルカはカカシの元を訪れていなかった。何度か病室の扉の前まで足を運んだ事はある。しかしどうしてもドアノブに手を掛ける事ができなかった。
扉の前に何時間と立ち尽くす自分の気配を、カカシも気付いていた筈だと思う。
一度だけ、「イルカ先生・・・?」と扉越しに小さく声を掛けられた。カカシはその後何の言葉も続けなかったが、自分の名を呼ぶその優しい声音が、どうしたんですか、鍵は開いてますよ、と自分を中へと誘っているようだった。

だが俺は何も答えることができなかった。

イルカは見詰めていた壁のカレンダーを勢いよくビリと破ると、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。何時の間にか数えてしまう。カカシに会わなくなってから何日が過ぎたのかを、毎日毎日気がつくと執拗に数えている。そんなに数えても日付が早々に変わるわけでもないのに。数えては喩えようのない焦燥に心を苛立たせる。

カカシ先生はどれくらい回復したんだろう・・・何時任務に出立してしまうんだろうか・・・?

最後に会った日、暗部がカカシを囲んでいた。カカシは任務に出ると言っていた。任務に就くには何とも心許ないあの体で。すぐには無理の筈だが、あれから十日あまりが経とうとしていた。回復するには不十分な時間だが、思わしくない戦況はカカシの全快を待ってはくれないだろう。何処か妥協地点でカカシは参戦を余儀なくされるのだ。
それは今日かもしれないし明日かもしれない。

それどころかひょっとすると、既に出立した後なのかもしれない・・・

そう思うとイルカは胸を鋭利な刃物で抉られたかのような痛みを感じた。今度の任務から帰って来れるという確立は極めて低い。万全でないカカシに求められているのは、唯一まともに働きそうな写輪眼だった。使い捨てだと鈍感なイルカでも気付いた。カカシは今回の任務で使い捨てられるのだと。それはカカシ自身が一番感じている筈だ。しかしカカシは何でもない事の様な顔をしていた。

あの時もそうだった・・・・俺に禁術を使った時も・・・
重傷を負ったまま、限界の体を抱えて・・・

イルカは畳の上に寝転がるとそっと目を伏せた。

もう会えないのかもしれないのに・・・俺は・・・これでいいのか・・・?

胸が絞られるようにぎしぎしと軋んで激しい痛みを訴える。本当は会いたかった。こんな終り方は嫌だった。好きだと思った。心からカカシの事が愛しいと。唇を重ねた時至福を感じた。それは間違いじゃない。だけど。

過去が、俺を縛り付ける・・・・

憎悪と絶望と恥辱に塗れた過去が。カカシの仕打ちが。そして自分の体に残る傷跡が。
忘れてはいけないと己を戒める。

俺を鞭打ち、全てを踏みにじり。友達の命さえ奪った・・・

許せるはずがない。

イルカは震える手で顔を覆った。

許してはいけないんだ。

震える手の下を熱いものが濡らす。例えカカシが思い出さなくても、自分は思い出してしまった。何も覚えていないカカシを断罪しても意味はない。今のカカシを断罪しても。分かってはいるが割り切れない思いは残る。
イルカは幾ら考えても自分の気持が分からなかった。心の中に常に愛する気持ちと憎む気持ちとが存在し、綯い交ぜになっていて切り離す事ができない。

俺はどうしたらいいんだ・・・・
本当は・・・どうしたいんだ・・・・?

嗚咽を堪えるイルカの耳にドクドクと脈打つ自分の心臓の音が聞こえた。その鼓動があまりに早く胸が苦しい。

思い出したくなかったのに・・・・

イルカは涙を零しながら無意識の内に左手の薬指を自分の唇に押し当てていた。指先が火のように熱かった。あの時触れたカカシの指先のように。イルカは何度もその指先に口付けた。

その指先に続く、カカシの命を代償に鼓動を刻む心臓を思って。

胸が痛い。苦しい。どうしようもない。
痛くてどうしようもない。

それなのに熱くて。

あのまま・・・死なせてくれればよかった・・・

イルカは死よりも苦しい煩悶に身を捩った。

その時こんこん、とイルカのアパートの扉を叩く音が微かにした。イルカはビクリと体を震わせた。訪問には随分と遅い時間だった。風の音か何かの聞き間違いだろうか。そう思っていると、もう一度こんこんと今度は確かな音がした。
イルカは涙を擦りながら、玄関の扉を見詰めた。

応えるのが怖い。

扉の向こうに良く知った気配を感じていた。黙っていると、向こうが口を開いた。

「イルカ先生、こんばんは〜・・・こんな夜分にすみません。俺、明日から任務なんです・・・だから、どうしても会いたくて・・・・」

開けてくれませんか、とぎこちない声が告げる。

イルカはそれを耳にしても動けないままでいた。

 

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