(32)
「大丈夫ですか、イルカ先生・・・本当に顔色が悪いですよ?」
イルカはその気遣わしげな声にはっと我に返った。しとどに汗を滲ませるイルカの顔をカカシが心配そうに覗き込む。その静かに澄んだ青い瞳に、滑稽なほど体を戦慄かせ、狼狽した表情を見せる自分が映っていた。
イルカは思わず目を逸らしながら、恐ろしいくらいに激しく脈打つ心臓の音を、カカシ先生に気取られませんようにと祈った。
カカシ先生は何も覚えていないんだ・・・
イルカは心の中で何度も自分に言い聞かせた。夢の中で過去のカカシへの憎悪を意識した時から。どうなってしまうのだろうとこの時を危惧していた。全てを思い出したら、自分は一体どうなってしまうのだろうと。カカシを好きだという気持ちは消え失せて、再び憎しみが自分を支配するのか。
それともこの思慕の念が過去を凌駕するのか。分からなかった。だから恐れていた。
思い出すことを酷く。その影に怯えて。
しかし背中を丸めて身を隠すイルカを嘲笑うかのように、残酷な過去はイルカに追いつき、腕を回してその憎しみに滾る懐に抱き締める。
全てを捕らえるように。
イルカはその腕の中から逃れようと必死でもがいていた。
違う・・・違うんだ・・・あの時の・・・過去のカカシと今のカカシ先生とは違う・・・別人も同然なんだ・・・
自分自身に対して懸命に繰り返しながらも、一方では果たしてそうだろうかと納得できないイルカの心が声高に叫ぶ。
自分はあの頃と何等変わっていないのに、カカシは違うとどうして言う事ができるのか。
過去の自分と今の自分とは記憶の喪失に分断されながらも、今再び繋がった記憶の同一線上に立っていた。失われていた記憶の中の自分が別人だったとは思わない。
どちらも同じ俺だ。だから・・・
その考えにイルカは一層激しく体をカタカタと震えさせた。
カカシ先生も同じ、だ・・・・
目の前にいる男の優しい笑顔が歪んだものに塗り替えられていく。この男の手によって、かつて体中につけられた傷跡が一斉に悲鳴を上げるように痛み出す。そんなことある筈ないのに。体に刻まれた痛みの記憶の感覚に眩暈を覚えながら、しっかりしろ、とイルカは自分を叱咤した。相反する心がイルカの中で激しく鬩ぎ合っていた。
俺は愛している筈だ。誰よりも優しいこの男を。
俺は憎んでいる筈だ。誰よりも残酷なこの男を。
そんな筈ない。どうしてこんな馬鹿なことを・・・俺は・・・・俺はカカシ先生を・・・・
「イルカ先生、」
返事をせずに俯いたままのイルカに、カカシは辛抱強く優しく声を掛けた。
「もう少し、ここで休んでいきますか・・・?」
カカシは言いながら、イルカの熱を計ろうと思ったのか、それとも汗に濡れた前髪を払ってやろうと思ったのか、イルカの額にその手を当てようとした。
その手を。イルカは思わず払い除けていた。
あからさまな拒絶を臭わせた態度だった。
吃驚したような顔をするカカシにイルカ自身も激しく動揺していた。どうしてこんな事をと自分の振る舞いを後悔しながらも、最早混乱するイルカの心は自分を上手く統制できなくなっていた。動揺する唇は次いで思い掛けない言葉を吐いた。
「カカシ先生は・・・九年前・・・」
何を言う気だとイルカは焦っていた。だが、その唇は自分の意思とはまるで関係がないように言葉を吐き出していく。
「あの泥沼の内乱で・・・記憶喪失になったと火影様から聞きました・・・ひょっとすると、今回のカカシ先生の体の異変は・・・その時起こった何かに関係あるんじゃないかと・・・」
カカシはどうして突然そんな話をするのかといったように、瞬間怪訝な表情を浮かべた。
「ええ、その話は火影様から聞きました・・・イルカ先生も聞いていたんですね・・・でもあまり関係なかったみたいですよねぇ。」
俺、こうして回復してるし、と呑気な調子で答えるカカシを、纏まらない思考のままイルカはぼんやりと見詰めた。
本当に、何も覚えていないのか。
「思い出したり・・・しませんか?」
「え・・・?」
「その時のことを思い出したり・・・しませんか・・・?」
イルカの真剣な眼差しにカカシは暫し考え込むように沈黙していたが、突然眉尻を下げて情けなさそうに笑った。
「う〜ん・・・それが全然・・・思い出したりしないようです、今のところ・・・・何か気になることでも?」
俺のことを心配してくれてるんですか、俺は大丈夫ですよ、と嬉しそうな笑顔を浮かべるカカシにイルカは曖昧に笑う事しかできなかった。カカシは全てを忘れてしまった。自分にした残虐な仕打ちを何一つ覚えていない。だから自分はそれを詰る事もできない。
それでも、目の前にいる男は確かにあの時の男なのだ。
自分だけが思い出したことが無性に腹立たしく、そして無性に悲しかった。
全ての記憶を失ったとしても、絶対に俺はあんたに辿り着くから。
その言葉を忘れずに思い出した自分に。
その言葉通りに辿り着いた目の前の男に。
何処か痛みを覚えながら。
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