(31)

翌朝荒れ狂う吹雪はすっかり鳴りを潜めていた。同じように凶暴な猛りを映したカカシの瞳もまた、今は静かな色を湛えていた。
カカシは乳白色の濃霧が立ち込める雪原に降り立ち、打たれた傷跡の痛みにふらつく俺の手を引いた。濃霧は空と地上との境界とを隠し、前を行くカカシの背中すら煙の中に溶けてしまったかのように見える。
俺は裂けた傷の痛みが齎す熱と天地の分からぬ白一色の世界に眩暈を覚えた。一瞬何が何だか分からなくなる。

俺は何処を歩いているのだろう。
一体何処へ行こうとしているのだろう。

そんな簡単な事が分からなくなる。俺が雪に足を取られそうになると、その度ごとにカカシがギュッと俺の手を強く握った。まるでここにいると俺に知らせるように。時には足を止め、ゆっくりと振り向いて。
この曖昧な世界で確かなものはカカシの手だけだった。俺の手を握る、カカシの。
俺を捕らえ苛む手は今はただ暖かく俺を包み、強い力で俺を導く。だが俺がそれに惑う事は無い。俺の心もまた落ち着きを取り戻していた。

俺はこの手が齎す痛みだけを受け止めていればいいのだ。憎悪をだけを胸に。

ぼんやりと思っていると、不意にカカシが俺に訊いた。

「俺のことが憎い・・・?」

以前もカカシに同じことを尋ねられたことがあった。その時カカシは俺に返事を求めなかった。俺の返事はどうでもいいようだった。しかし今回は違った。カカシはその答えを強請るように徐に足を止め、俺を振り返った。霧が深くてカカシの顔はよく見えなかったが、握った手が微かな震えを伝えていた。俺はその手の震えが微かに俺の心をも揺らすのを感じながら、しかしはっきりと言った。

以前言葉にすることのなかった、その答えをはっきりと。

「憎い、です」

瞬間俺を掴むカカシの手にぎゅうと力が込められた。それは骨も折れるほどの強さで、俺は思わず顔を顰めて呻き声を上げていた。カカシはすぐにハッとして俺を掴む力を緩めた。離れると思ったカカシの手はしかし離れては行かず、カカシは俺の指の間に自分の指を絡ませるようにして、もう一度しっかり俺の手を握った。そのままカカシと俺は無言のまま雪道を歩いた。どうしてカカシが今更そんな事を訊いたのか分からなかった。

確かめる必要もないだろうに。

そう思いながらも俺は自分の心が震えているのが分かった。自分で口にした言葉に何処か恐れ戦いていた。憎いと言葉にした後もカカシは変わらなかった。俺の足元がふらつけばギュッと俺の手を握り、気遣うように立ち止まる。俺の手を握るカカシの手は悴む朝に温もりを伝える。

温かくて。
残酷さの欠片すらない。

俺はその手を振り解くべきだと感じながらも、ずっと振り解けないでいた。
この真っ白な曖昧な世界で俺はそれを自分に許した。また現実の世界に戻るまで。
この手が俺を苛み、憎悪を確かにしてくれるまで。

ほんの一瞬の間だけ。

ようやく山を降りきった頃、霧に覆われた地上の上に太陽がすっかりその姿を現していた。俺はその姿をふと仰ぎ見て、思わずその珍しさにあっと声を上げてしまっていた。太陽を貫くように白色の虹が掛かっていた。そんなものを目にするのは初めてだった。俺の隣ではカカシが厳しい顔をしていた。

白虹貫日・・・なんて不吉な・・・」

白虹は昔から戦乱の予兆とされ忌み嫌われてきた事を俺も知っていた。だが、それをすぐに現実に結びつける事ができなかった。しかしカカシは嫌な予感がする、と小さく独り言ちた。その存外真剣な眼差しに俺の心も騒いだ。カカシは忍の目をしていた。
木の葉の里に帰り着いた時、その予感が現実であったことを知った。

「国主に有力な大名が手を組んで謀反を企てた。内乱じゃ。内乱が始まったのじゃ。」

待ち受けた火影様の顔は焦燥と憤怒と、そして悲しみに満ちていた。内乱はようやく見えてきた戦乱の終息を遠いものにすることは確実だった。これから内外の戦いは苛烈を極め、その間で忍はまた悪戯に命を散らしていくだろう。

「カカシよ、お前にはまたすぐに働いてもらわねばいかん。」

火影様はそう言いながら、俺に向かってすまぬ、イルカよ、と辛そうに頭を下げた。
その意味を俺はちゃんと分かっていた。

 


 「俺の側から離れないで」

短く告げたカカシの呼吸が、いつもと違って僅かに荒い。
隣に立つ俺にいたっては、既に大袈裟に肩で息をしていた。
俺とカカシは道に立って国主を安全な場所へと護送する部隊が到着するのを待っていた。日が落ちたその合流地点に俺達が着いたのはまだ五分と満たない、ほんの少し前の事だ。
俺達は山から降りて木の葉の里に帰るや否や、その足ですぐに任務に赴く事を言い渡された。木の葉の里に着いた時点で午後を大きく回っていたのに、夕刻までに国境沿いまで辿り着かねばならないと聞いて仰天した。しかも自分の傷はともかく、カカシの脇腹の傷や、全身を覆う包帯が気になった。こんな状態で戦えるのだろうか。俺は疑問に思った。だが、火影様もカカシも全くそのことには頓着していなかった。その程度は当たり前だと言わんばかりの態度だった。里にいるのを許されたのは僅か十分程度だった。状況説明に五分、そして忍具の準備に五分。それ以上は留まる事を許されなかった。僅かな休息もなく俺達は里を後にした。しかも国境沿いの合流地点に夕刻までに着く為には全力で走り続けねばならなかった。
一晩中打たれて苛まれた俺にはきつい工程だった。そしてそれは負傷しているカカシにとってもそうだろう。
だけどカカシはそれを平然と受け入れている。
俺は改めてカカシが今まで生きてきた修羅の世界を感じながら、無表情に立ち尽くすカカシの姿をじっと見詰めた。

今でもカカシは死にたいのだろうか。

俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

俺も・・・今でも死にたいんだろうか。

そんな取りとめもないことを。

するとカカシが俄かに表情を厳しいものにした。段々と近付いてくる気配を感じ、俺も緊張を高めた。砂塵を上げながら国主を乗せた輿を担いだ一行が音もなく姿を現す。輿を取り囲む忍の一人が俺たちの傍らを猛烈な速さで通り抜けながら、「先陣十名を真ん中にして総勢三十名の部隊が網状に囲い込みをかけてきている。五分後には追いつく。後は頼んだ。」と短く的確に戦況を告げる。
そう、カカシの任務は国主の首を狙う刺客団の追手の足止めと壊滅だった。国主の偽者を何人も仕立て、追手の数を分散させたが、敵もそうそう騙されてくれなかった。国主を安全な場所へと移動させるまでの間、食らい付いて来た敵をここでどうにかせねばならない。

「三十人か・・・」

カカシは小さく独り言ちた。何処か棘を含む声だった。戦いを前にしてそんなカカシの声を聞くのは初めてだった。戦いがカカシに何らかの感情の起伏をもたらしたことはない。そのカカシが何処か不安げに苛立っている。

やはり体調が思わしくないのかもしれない・・・

俺がそう思った時、カカシが素早く俺を背中に庇うようにして立ち、背負った長刀に手をかけた。

「来る・・・!」

丁度五分を数えた頃、視界に追いついた刺客の黒い影が映った。

 

 

 

報告を受けた敵の数は三十人。
目に見える先陣の十名は注意を引き付けておく囮だ。残り二十人は十名の命を踏み台に、姿を隠し先を急いでいる筈だった。
だが、敵の目論見は水泡に帰すだろう。それは待ち受けているのがカカシだったからだ。
時間を稼ぐ筈の先陣の十名はカカシが地面を蹴った次の瞬間には、全て血を噴出すだけの肉塊と化していた。カカシが素早く印を組むと、現れた幾頭もの忍犬が残りの拡散する敵を一定方向に囲い込むように追い立てていく。次々と闇に潜んでいた敵の気配が炙り絵のようにはっきりと姿を現すと、カカシはそれに追いついては冷静に長刀を振るい、しかもその一振りで確実に敵の息の根を止めた。敵は応戦するというよりも、カカシを振り切ろうとしているようだった。しかし追い上げるカカシの足の方が速くそれもままならない。俺は襲い来るクナイや手裏剣を避けながら、その流れるような忍の妙技を少し離れた後方から感嘆とともに眺めているだけだった。付いて行くのが精一杯で、とても参戦どころではない。防戦一本槍だ。

カカシの・・・怪我は・・・大丈夫なんだろうか・・・

俺はいつもと変わらぬカカシの動きにそんなことを考えながら、足元に転がる死体を数えた。

十六、十七、十八・・・・それに今カカシが対峙している敵と、遥か後方に転がる、先に倒した十人の骸を加えて。

二十九。

一人足りない。

俺がそう思った瞬間、カカシの頭上から敵の忍が暗夜に舞う鷹のように姿を現した。その手に光る刃がカカシを狙っている。いつものカカシなら難なく避けられるその攻撃に、しかしカカシはすぐに反応できないでいた。在り得ない出来事だった。やはりカカシは怪我の具合が思わしくなかったのだと俺はこの時知った。

それなのに、俺を。

「カカシさ・・・っ!」

どうしてそんな事をしてしまったのか分からない。しかしその時俺は咄嗟に動いていた。憎むべき男を敵の刃から庇うために。
それはきっと、カカシがあの時俺を見捨てなかったように。
俺の為に大怪我を負ったように。

そして今も俺を背中に庇って走り続けたように。

俺はその借りを。借りを返したかったのだと思う。きっと。きっとそうだ。

敵の刃は俺の体を貫き臓腑を抉った。切っ先が引き抜かれる感触とともに喩え様のない激痛が瞬間脳を焼く。勢いよく上がる血飛沫に濡れながら、俺は急速に体が温度を失っていくのを感じた。

「イルカ・・・・っ!」

カカシの絶叫が聞こえた。それとともに瞬時に両断され崩れ落ちていく敵の影を認めて、俺はぼんやりと数えた。

これで三十・・・。全部、終わった・・・

少しだけ口の端に笑みを浮かべて。

任務は無事完了し、俺はカカシに借りを返せた。

・・・・そして・・・・俺もここで終わる・・・・・・

助からないと自分でも分かった。
求めていた筈の死はやって来て、俺を安らかな眠りへと誘う。解放の瞬間に俺は恍惚としながら、しかし心のどこかで叫んでいた。

俺は・・・・本当は・・・・・

イルカ、と俺を呼ぶ声がしている。とても優しく、そしてとても悲しい声で。

「イルカ・・・イルカ・・・・イルカ・・・・・ッ・・・!・・・・!」

俺の頬の上を震える指先が何度も辿る。愛しげに、まだ留まっている温もりを確かめるように。
ぼやける視界に何かがきらきらと輝いては落ちてくる。それは俺の頬を熱く濡らしていく。
泣いているのか、と俺は思った。

カカシは泣いているのか。

明るい筈の満天満地の月光の下で、カカシの顔が暗くてよく見えない。もう、よく見えなかった。

でもきっと泣いているのだ。

見えなくてよかったと俺は思った。見えていたらきっと俺は。

カカシは突然震える声で言った。

「俺はあんたを絶対に死なせない・・・・」

嗚咽混じりのその声は、しかし強い意志が漲っていた。

「俺より先に死ぬなんて、絶対に・・・許さない・・・・」

カカシは呟きながら俺の目の前で小刀をすらりと抜いた。開いた異形の瞳が炎を灯した様に赤々と燃えていた。
これは禁術だとカカシは言った。死に逝く魂を己の寿命と引き換えに、この世に留める為の禁術だと。

「十年でも二十年でも・・・好きなだけくれてやる・・・・」

カカシは言いながら、一瞬の躊躇もなく、己の左手の薬指に小刀を振り下ろした。ごつりと骨までも断つ鈍い音がして、切り落とされた指先から鮮血が噴出す。心臓に直結している左手の薬指は出血が夥しく、その血はカカシを、俺を、赤く濡らしていく。
カカシはその血の滴る指先を、そっと俺の口に含ませた。

「俺の心臓を・・・魂をあんたにあげる・・・・全部、あんたのものだ・・・・」

喉に流れ込むカカシの血が熱い。その熱い血が冷えていく俺の体を巡って、やがて届いた胸を熱く焦がした。赤く燃え盛る火のように、熱く。

「あんたがいなかったら・・・俺は生きている意味なんてないんだ・・・」

どうしてなのか、その時のカカシの顔が光を失う俺の瞳にはっきりと映った。もう見えないはずの瞳にはっきりと。
どうしようもなく心が震えていた。どうしようもなく。俺の心が。

そんな顔をするな。

俺は心の中で叫びながら何時の間にか涙を零していた。涙は止まる事を知らず、俺の瞳から零れては落ちた。

そんな瞳で俺を見るな。
今頃になってそんな言葉で俺を惑わせるな。
どうしてこんなことをするのか。
俺は。俺はあんたの事なんて。

「俺は・・・・あんたの命なんて、いらない・・・・」

最後の力を振り絞って口にした言葉に、カカシは宥めるように優しく俺に口付けた。柔かな羽根のように、触れるだけの優しい口付けを。そしてそれは決別の合図でもあった。

「この術は俺からもあんたからも・・・お互いの記憶を奪うかもしれない・・・・」

言いながらカカシは素早く印を組んでいく。
俺はそれをなす術もなく見詰める事しかできなかった。

「どうか忘れないでいて・・・?たとえ全ての記憶を失ったとしても・・・・絶対に、俺はあんたに辿り着くから・・・・」

たとえ生きながらえても、辿り着かせるものかと俺は思った。

俺は絶対に思い出さない。

そう思うのに何故だか胸が熱く震えて仕方がなかった。

震えさせているのはカカシの血だ。
俺の体に流れ込んだ、カカシの。

心が。

遠のく意識の中で最後に見たのは、二人を包む目も眩むほどの閃光だった。
その時耳元で聞こえたような気がした。
最後にカカシが囁く声が。

 

・・・・きだ・・・

 

 

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