(30)

呆気ないものだ。

俺は真っ暗な夜半の空を白く染めるように降り頻る雪を眺めながら、そう思っていた。

随分と呆気ないものだ。始まりが突然だったように、終りもまた唐突で、何て呆気ない・・・・

火影様が用意してくれた人里離れた山小屋は、ストーブの上でしゅんしゅんと蒸気を上げる薬缶の音しかしない。後は時々強い風が窓をカタカタと揺らすくらいだ。静寂に閉ざされた世界は下界の戦火を伝える事もなく、俺は日々衰弱した体をベッドの上に横たえ、安寧を貪るだけだった。

なんて極端な変化なのか。

俺はおかしくもないのに薄く笑みを浮かべた。つい二週間前までは毎日のように鞭打たれ、組み敷かれ。戦場の最前線で命の危険に晒されていた。緊張と絶望の支配する地獄の日々。まるで全てが悪い夢だったかのようだ。
しかし、それが夢でない事を引き攣る背中の傷の痛みが思い起させる。鞭打たれた傷は薄い皮膜に今は塞がってはいたが、衣服の布地が触れただけで、敏感に痛みを訴えていた。痛みはいつも俺にあの男を喚起させた。

銀髪の、綺麗な面立ちをした男の姿を。

思い出すと更に俺を襲う痛みは増した。だがそれは鞭打たれた傷の痛みではなかった。
痛むのは胸だった。何処か自分の奥底で何かが。訴えるように、じくりと痛んで。

どうして泣きたくなるのか。

俺はいつもベッドに横たわりながら、よく眠る事ができなかった。安眠を妨げるものは何もないのに。自ら選んで、そして渇望していた結末だった。手に入れた平穏な生活に俺は満足していた。満足している筈だった。
それなのにどうしてなのか、いざそれを手にしてみると、俺はよく分からない苛立ちと焦燥のようなものを覚えた。

二週間前、病院の一室で火影様は俺に言った。

イルカよ・・・これはお前がカカシと離れることができるいい機会かもしれん。上層部も今ならばそれについて異議を唱えることはない。お前が望むならすぐさま正式に手続きを取ろう。

すぐさま頷く筈の答えを俺は一瞬躊躇った。

「目が、覚めるまで」

思わず小さく言ってしまった後で俺はハッとした。俺は一体何を言っているのか。そう思うのに、口は勝手に言葉を続けた。

「カカシさんの目が・・・覚めるまで・・・ここにいても、いいでしょうか・・・・?」

火影様は俺の言葉に難色を示した。

「目が覚めてからでは遅かろうよ。お前の答えは否と受け取っていいんじゃな。」

火影様の答えを決定付ける口調に、とんでもない、と俺は大慌てした。このままカカシの慰み者として過ごす事など、誰がよしとするものか。勝手な里の遣り方に腹立たしく思いながらも、この絶望と屈辱と・・・お互いに憎しみ合う日々から解放される事を心から望んでいた。求めても得られなかった機会が図らずもやってきたのだ。ただ、その時俺が躊躇したのは。

カカシは俺の所為で生死の境を彷徨っているのだ。

そんな何処か負い目のようなものを感じていたからだった。自分の命を追い立てていた男にそんな事を感じるのは見当はずれかもしれない。だが俺はこのままこの男に借りを作るようなことは心底嫌だった。だから確かめたいような気がしていたのだ。カカシの目が覚めて。命に別状がないことを、この目で確かめて。そうすれば自分の心を覆う靄のようなものが晴れると思っていた。それから離れてもいいだろうと、そんな馬鹿げたご都合主義な事を。 目が覚めてからでは遅い。そんな事火影様に言われなくても分かっていた筈なのに。
火影様は暫くじっと俺の顔を見つめた後、これが最後だとばかりにもう一度訊いた。

「それでお前はどうしたいんじゃ、イルカよ。返事は否か応かしかない。お前はこのままでいいのか。」

このままでいいのか。

いい筈がなかった。その言葉に俺は今度こそ、緩慢とではあるが首を横に振っていた。

火影様はすぐに正式な手続きを踏み、俺をカカシから解放した。火影様は俺に人里離れた山小屋を療養の場として提供した。衰弱した体が完全に癒えるまでそこで過ごすように命じられた。食料や医薬品が定期的に届けられる他は誰もが足を踏み入れない場所だった。例えカカシが目覚めて俺を見つけようとしても、おいそれと分からないような。そんな場所だった。

齎された安寧に何の不満があると言うんだ。

俺は自問しながら、ぼんやりと窓の外を見詰めていた。何時の間にか降り頻る雪は荒れ狂う吹雪となって、ガタガタと窓を激しく揺らしていた。

明日は止むだろうか。雪掻きが大変だな。

思わず俺が苦笑を浮かべた時、突然ばたんと大きな音を立てて入り口の扉が開いた。同時にビョウと吹き込んで来た凄まじい寒風に一瞬身を縮こまらせながら、鍵を閉め忘れたのかと俺は慌てて扉に目を遣った。

そして。

俺はそのまま身動き一つできなくなった。
荒れ狂う吹雪が開いた扉の隙間から吹き込んで、忽ち部屋を白く染めていく。
開け放たれた扉の前に男が立っていた。こんな暗い夜でもその瞳は赤い光を放っていた。まるで燃え盛る火のように。
そう、その瞳は怒りで燃えていた。その瞳を俺はよく知っていた。

「カカシ・・・さん・・・・」

意識が・・・戻ったのか・・・

驚愕に震える言葉に混じっていたのは、恐怖と絶望だっただろうか。それとも。

その答えが出ないうちに、カカシは俺に歩み寄ると平手で俺の頬を情け容赦なく強かに打った。そのあまりの勢いに俺の体は均衡を失い、派手な音を立てて床に転がった。打たれた頬がジンジンと熱を持って強烈に痛んだ。その痛みに眩暈を感じながらも俺がカカシを見上げると、カカシは部屋の真ん中にあった火鉢に刺さった、鉄製の炭箸を手にしていた。その手に包帯が巻かれているのが見えた。よく見ると、頭にも首にも。カカシの体の至るところに包帯が巻かれていた。その包帯に血が滲んでいる。二週間前はそんな傷はなかった。負傷していたのは脇腹だけだ。

意識が戻ってすぐ、戦場にでも出ていたのだろうか・・・?そんな事、ありえるだろうか・・・?

不思議に思いながら見詰める俺の瞳に、カカシが炭箸を持った手を振り上げる姿が映った。
だが俺は逃げなかった。叫びもしなかった。
振り下ろされた炭箸に肉が裂ける痛みを感じながら、俺は安心していた。

肉を裂く痛みが確かにしてくれる。

何処か惑う心を冷笑するように。

俺はこの男を憎んでいるのだと、その憎悪を確かなものに。

 

31へ