(28)

 ハアハアと肩で息をしながら俺はカカシの後姿を追っていた。前を走るカカシの背中が近い。俺に速度を合わせている証拠だった。本当ならば俺はカカシを見失っている筈だ。

「遅い」

背中越しにカカシが小さく呟く。

そんなの知るか。始めからこうなる事は分かっていた筈だ。

俺は荒い息を吐きながら心の中でカカシを罵倒した。カカシから逃げようとして雪山を長時間彷徨っていた俺の体は、一晩泥のように眠った後でも回復しないままだった。しかし、カカシは疲労して寝返りさえままならない俺を、無理矢理寝床から引き摺り出した。

昨日はあんなに遠くまで逃げ出したくせに。動けないって事はないでしょ。

カカシはいつもの如く、俺を戦場に連れて行くつもりだと知った。昨夜衰弱しきっていた俺の体を辛うじて動かしていたのは死への憧憬だった。今やその機会は失われ、俺は全てを使い果たしていた。体力も気力も、全て。動ける筈がなかった。
だがそれを口にするのも馬鹿らしく、抗ってもカカシが必ず自分を連れて行くだろうことは分かっていた。今までもずっとそうしてきたように。

今日はどんな任務なんだろうか。

死の影が俺の前にちらついていた。カカシとの任務が容易なはずはなかった。

自分で線引きできず、結局俺はこの男の前で死に顔を晒すのだろうか。この男の手の中で、最後まで。

嫌だと思うのにどうする事もできない。連れ戻された時からこうなるのは分かっていたのだ。俺は僅かに残された気力を振り絞ってのろのろと服を着替えた。腕が鉛のように重く、力の入らない指先は痺れたように震えて、何時まで経ってもベストのファスナーを上手く閉めることが出来なかった。カカシは暫くその様子を無言のままじっと見詰めていたが、見兼ねたのか、突然俺の手をどけてジーッとベストのファスナーを上げた。俺はその手を払うでもなく、その動きをぼんやりと追っていた。
すると不意にカカシの手が途中で止まった。

「・・・・?」

そのまま動かない手を不思議に思って、俺はカカシの様子を窺うようにそうっと顔を上げた。
その見上げたカカシの顔が。つらそうに歪んでいた。
いつか見たように。
子供のように。泣き出しそうな顔をして。
俺はその顔に突如として堪らないほどの胸の痛みを感じた。見ていたくない。それなのに視線を外す事ができなかった。視線を外す事ができなかったのは、カカシが何かを言いたそうに、何度も震える唇を開いては閉じて見せるからだ。
俺はそれを待っていた。ずっと、目を逸らさずに。待っていた。
俺は何を。カカシがなんと言うのを待っていたのだろうか。
カカシも俺を見ていた。じっと俺を。
しかしカカシは不意に視線を外すと、途中で止めた手を動かして、最後までファスナーを引き上げた。
閉まったファスナーと同じように、何かを言いたげだったカカシの口は閉ざされてしまっていた。

あの時カカシは何を言いたかったんだろう。

俺は乱れる呼吸に芯を失ったようにぐらぐらとする体を叱咤しながら、ぼんやりと考えていた。ぼんやり考えてはいても足の方は必死で動かしていた。それでも疾走する速度はいつも以上に遅く、俺に合わせている筈のカカシの背中との間に徐々に距離ができていた。自分達を取り囲むように併走する敵の気配が増えるのを感じた。俺の遅さに敵が追い付いてきたのだ。
前方でカカシが舌打ちするのが聞こえた。舌打ちしたくもなるだろう。今日の敵は手強い。空気中に迸る殺気の凄まじさがそれを伝えている。それに人数も多い。幾らカカシでも荷が勝ちすぎる。全てを相手に立ち回るのは得策じゃない。そんなことは俺にでも分かった。

でも完全に追い付かれてはいない今ならば、カカシ一人なら逃げ切れる。

それも分かった。そして俺はもう限界な事も分かっていた。こうなる事は今朝天幕を出た時から分かっていた。カカシは俺を死なせないと言っていたが、こんな状況ではカカシ自身の命も覚束無い。仮にもこの戦場の総指揮を取る男が、高々お遊びの玩具の為に軽率な判断をするはずはないだろうと思った。

だからもうこれで終りだ。俺はここで終わるのだ。

遂に俺は自分の足元から力が抜けていくのを感じた。過度の呼吸に眩暈がしていた。敵が近づいてくる。弱った俺は格好の餌食だ。
その場に膝を付いた瞬間。俺は潔く死を覚悟した。

しかし、

「あんたはそこを動くな!」

突然俺を背中に庇うように、前を行っていたはずのカカシが俺の前に降り立った。剥き出しの異形の瞳が赤く燃えていた。

「な・・・なんで・・・?」

馬鹿な・・・この男は正気か・・・・!?

俺は唖然としながらも、その後姿をただただ見詰める事しかできなかった。血風の中をカカシが舞っていた。次々と上がる血飛沫に断末魔の喘ぎが聞こえる。血に染まる銀髪が獲物を屠る獰猛な獅子の鬣に似て見えた。
積み重なる足元の屍骸にふと俺が視線を外した瞬間。

ポツ。

俺の顔に何かが降って来た。それが何なのか、その正体に気付いた時俺は思わず悲鳴を上げていた。

「カカシ・・・さん・・・!」

見上げた俺の瞳に敵と刺し違える形で、カカシがその脇腹に刀をつき立てられていた。俺の頬を濡らしたのは飛び散ったカカシの血だったのだ。対峙する敵も口から血の泡を吹いている。敵はそのまま事切れているようだった。それが最後の敵だったのか、辺りから殺気は消え去っていた。

「カカシさん・・・し、しっかりしてください・・・!」

崩れ落ちるカカシの体に俺は這うようにして必死に近付いた。

こんな男死んでもいいはずだ。放っておけ。

そう思うのに、今俺を見捨てなかったカカシを俺もまた見捨てる事ができなかった。近付いたカカシの傷の深さに息を呑み、俺は処置の道具を弄った。自分の持っている分だけでは包帯が足りなかった。カカシも持っているはずだ。
カカシの体のあちこちを弄っていると、何か小汚い布切れのようなものが出てきた。

取り合えず、止血の為に傷口に当てておこうか。

そう思って広げた瞬間、俺は衝撃に動きがとまった。すぐに体がおかしいほど震え出す。
その布切れのよなものの端っこに糸で名前が縫ってあった。

イルカ

俺の名前だ。そう、それは俺の母親が縫ったものだ。まだ俺の母親が生きていた時に。

これは俺の、あの時の・・・・

雪の中で倒れていた少年にあげたマフラーだった。

俺の鼻の上に傷をつけた少年に。

 

29へ