(27)

連れ戻された夜、カカシは俺を鞭打たなかった。無言のまま、たらいに沸かした湯を張り俺の足をそこに浸けた。じんわりと痺れるような温かさが爪先から這い上がり、俺は思わずホウッと溜息を吐いた。足の裏を丁寧に揉み解すようにされると、疲労して張り詰めた筋肉が弛緩していくのを感じた。正直疲れ果て冷え切った体はカカシの振る舞いを享受していた。

どうしてこの男はこんなことをするんだろう・・・

俺はぼんやりとカカシを見詰めていた。憎んでいると言われた。そして俺もカカシを憎んでいた。二人の間には憎悪しか存在しない筈だった。それなのに。今、俺は。カカシは。一体何をしてるというのだろう。到底憎しみ故の行為とは思えないそれを、俺はただ黙って見詰めていた。

「今日は抵抗しないの・・・?」カカシが不意に皮肉混じりの声で訊いた。

俺はやはり答えなかった。答える気力も抵抗する気力も残っていなかった。そしてカカシに関して何か考える事も鬱陶しくなった。考えたって無駄だと思った。カカシが自分を憎んでるにしろ何にしろ、そんな事が分かっても、事態は何等変わることがない。

俺はカカシを許すことが出来ない。

その気持ちが変わる事はなかった。だから考えても無駄なのだ。黙っていると、カカシが突然俺の爪先に唇を寄せた。俺はハッとして咄嗟に足を引こうとしたが遅かった。カカシの手はきつく俺の足首を掴み止め、しかしその手に込められた力とは裏腹に、唇は優しく俺の爪先に触れた。
俺は瞬間呼吸を止めた。いつも酷く責め立て俺を蹂躙するくせに、時々酷く優しく俺に触れる。まるで壊れやすいものを扱うように、大切に。俺は耐えられなかった。時折見せるカカシのその優しさが俺をどうしようもなく苛立たせる。かつて俺はカカシに言った。あんたから優しさなんていらないと。それは本心だった。カカシの優しさは俺の心を掻き乱す。どうしてだかカカシに優しくされると腹立たしく、そして酷く悲しい気持ちになった。
俺は今度こそ力をこめて足を引っ張りあげようとした。しかしカカシは足首を掴んだまま、ゆっくりと唇を離しながらその顔を俺に向けた。

見てはいけない。

俺は何故か狼狽して、素早く視線を外した。
しかしカカシは許さなかった。横を向いた俺の顎を捉えて無理矢理自分の方に顔を向かせた。俺は今度はギュッと目を瞑った。カカシがどんな顔をしているのか、分かるような気がした。

その顔を見たくなかった。

「イルカ・・・・」

カカシが俺の名を呼びながらそっと頬に触れてきた。なんて声で俺を呼ぶのか。その声音に、手の温もりに、俺の心は震えた。
胸が堪らなく痛かった。

俺の名前を呼ぶな。

叫びたいのに声にならなかった。口を開いたら何か別の言葉が飛び出してしまいそうで。きつく結んだ俺の唇にしっとりと温かいものが押し当てられる。カカシの唇だと容易に分かった。それはすぐに離れていってはまた戻ってきて、俺の唇に優しく触れた。

「イルカ・・・イルカ・・・」

カカシは口付けの合間に何度も俺の名前を囁いた。掠れた声で紡がれるその名は見えない呪縛で俺を絡め取った。カカシの体を押し返そうと胸板に当てた手は力が入らず、俺はさしたる抵抗も見せずにカカシに唇を許していた。あんなにも厭わしく思っていたのに。

違う。今でも厭わしい。俺は疲れているだけだ。疲れて・・・抵抗できないだけだ。

俺は必死で何かを押し止める。何を押し止めているのか分からないのに、必死で。ぎしぎしと胸を襲う痛みは増し、俺は呼吸をするのもやっとだった。その間もカカシは俺の名を呼んでいた。カカシの指先は閉じた俺の目蓋をなぞり、目を開ける事を強請るように口付けがそれに続いた。

「イルカ・・・」

その仕草のどれもこれもが、泣きたくなるほどぎこちなく、苦しくなるほど優しい。

今俺が目を開ければ何かが変わるのだろうか。俺とカカシとの間の何かが。

思いながらも、だが俺は決して目を開けなかった。
開けてしまいそうになりながらも。決して、許さなかった。

カカシに。そして自分に。決して。

 

28へ