(26)

深雪に足を取られながら、俺は覚束無い足取りで雪山を彷徨っていた。
誰の目にも触れぬような奥地へ。獣がその死に様を隠すように、自分の身を横たえるべき形なき棺を求めて。
凍える足の爪先は痛いほど痺れ、俺はその痛みにふと足元に視線を落として失笑した。靴を履いていなかった。俺は裸足のまま飛び出していたのだ。凍傷になるかもしれない。そんなことを考えてまた俺は失笑する。

馬鹿げている。今から死のうとしている人間がそんな事を心配をしてどうする。

自分を誘う雪は何時の間にか止んで、今は月明かりが白銀の世界を柔らかく照らしていた。まるで自分の辿る道の先に安寧が待っているのを指し示すように、柔らかく、優しく。ふらつく足を一歩前へと進める毎に重くなる体とは別に、泥濘に沈んだ心は軽くなっていく。自分の魂はあの男の手の届かない場所に行くのだ。もう決して踏みにじる事のできない場所へ。徐々に解かれていく枷を確かに感じながら、それでも俺は怯えていた。

急がなければ、きっと追い付かれる。

それは何の根拠も無い漠然とした強迫観念でありながら、俺は確信していた。カカシは自分を追って来る。怒りを宿した凶暴な眼をして俺を捕まえる。そしてまた骨が折れんばかりに鞭打たれ苛まれる。それなのに。そんな事をしておいてきっと。

苦しいような瞳をして俺に優しく口付ける。

俺は堪らずギュッと強く目を瞑った。胸が痛かった。憎い。俺はカカシが憎い筈だ。それは間違いなく自分の心を支配しているのに。どうしてなのか、カカシの事を思い浮かべると胸が痛い。その理由も分からぬまま、彷徨う俺の脳裏に様々なものが浮かんでは消えていく。

冷酷に俺を鞭打つ手が。
容赦なく蹂躙された光景が。

死線で命を落としたヒラマサの姿が。

そして支給品を俺の手のひらに乗せた時のカカシの、はにかんだような笑顔が。

あまりに胸が痛くて俺は思わず自分の手で心臓の上を鷲掴んだ。まるでそうする事で痛みが掬い取れるとでも思っているかのように。

カカシが憎い。俺はカカシを許すことが出来ない。俺から何もかも、友達の命までも奪った男を決して。

そう思うと呼吸もままならないほど胸の痛みは増した。何故か許せないことを悲しんでいるかのようだった。俺は何も考えたくなかった。その痛みが何なのか知りたくなかった。知ることを恐れていた。俺は痛む胸を押さえながらも、黙々とただ只管に雪の中を歩き続けた。

とその時。

サクッと雪を踏み締める微かな音が後方から聞こえた。俺は振り返らないままビクリと大袈裟に体を震わせた。聞き間違いではないと忍としての勘が告げていた。俺は我を忘れて夢中になって雪を掻き分けた。早く逃げなければ。早く早く。焦って我武者羅に歩を進めれば、力の籠もらない足元にすぐ雪原に膝をついた。俺はそれでも這うようにして、少しでも遠くへ行こうと躍起になった。もう間に合わないというのに。

「何処へ行くの?」

懸命に逃げようと足掻く俺の後を、ゆっくりと獲物を追い立てるのを楽しむかのように、気配が近付いてくる。

「こんな夜中の雪山を一人で・・・・危ないでしょ。帰って来れなくなるよ。」

優しげな声。しかし今その声の主が全く笑っていないだろう事は容易に想像できた。恐怖と絶望と。そして諦念に支配され、俺はようやく振り返った。もう逃げられなかった。そこに立っていた男―――はたけカカシは月光を受けて銀髪を美しく輝かせ、至高の笑みを浮かべていた。

「それとも、帰って来ないつもりだった?あんた、死ぬつもりだった・・・?そうなんでしょ?」

カカシにぐいと掴まれた肩がその凄まじい力に軋んで悲鳴を上げた。答えない俺にカカシは冷淡に、そして凄惨さを滲ませる声音で言った。

「無理だよ、俺からは逃げられない。絶対にあんたを死なせない・・・」

カカシの瞳が怒りで燃え滾っていた。死なせないなどとよく言う、と俺は皮肉な笑みを口の端に浮かべた。

いつかあんたの苛む手は必ず俺の息の根を止める。自分の手による死しか、俺に認めないということか・・・?

言ってやりたい言葉を俺は飲み込んだ。何もかも道を閉ざされて、酷く疲れていた。帰ってもまたカカシに鞭打たれて眠れないのだろう。でも俺には帰るしか道は残されていないのだ。もうそれしか。過ぎる失望が感情の全てを根こそぎ奪っていた。

もうどうでもいい。

どっと押し寄せる疲労に、俺はその場に座り込んだまま立ち上がる事ができなかった。

連れて帰りたければ引き摺ってでも連れて帰ればいい。もう俺は動く事ができない。殴られても蹴られても、もう。

黙ったまま座り込んでいると、カカシもまたしゃがんで俺の足元を見て眉を顰めた。

「馬鹿だね、ほんと。」

カカシは短く言うと、俺の踵を自分の膝の上に乗せ雪を払った。俺はされるがままだった。カカシは自分の着ていた上着を俺に羽織らせると俺を背中におぶって、ゆっくりと歩き出した。凭れたカカシの背中は温かかった。凍えきった俺の体は自分の意思とは裏腹に温もりに貪欲で、ぴたりと合わせた体を心地良くすら感じた。こんな男に背負われて、そんな事を感じる事が出来る自分に辟易した。これからどうせ手酷く扱われるのに。
悔しくて涙が零れた。そうだ、悔し涙だ。その時零したのは、絶対に。他の理由なんかじゃない。
濡れていく背中にカカシは気付いたのか、その時小さく言った。

「俺のことが憎い?」

尋ねるまでもない。そんなの決まっていた。だが俺は何も答えなかった。カカシも答えは求めていなかったようで、そのまま先を続けた。

「俺もあんたが憎い・・・」

カカシの思い掛けない言葉に俺は驚いて身動ぎした。そんな事をはっきりと言われた事は初めてだった。衝撃を受けていた。酷く。俺は憎まれていたのだとこの時知った。この酷い仕打ちはその所為だったのか。でも一体どうして俺を。

「死のうとする心を引き止められる苦しみ・・・それがどんなに残酷か・・・・俺を引き止めたのはあんただ。」

「え・・・?」

カカシの苦痛に満ちたその声に俺は動転しながら、目を何度も瞬かせた。カカシの言っている事が分からなかった。

俺がカカシを引き止めただって?そう言ったのか?

そんな覚えはなかった。一体カカシは何の話をしているのだろう。訊きたいのに俺は遂に口にすることが出来なかった。カカシに憎い、といわれた事が思いの外俺の心を掻き乱していた。激しく混乱する思考はまとまりがなく、震える唇は言葉を紡ぐ事ができなかった。

カカシも天幕に着くまでそれ以上何も語ることはなかった。

 

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