(23)

俺に唾を吐きかけられたカカシはそれを拭う事もせずに、能面のように表情のない顔で俺を見詰めた。
何の感情も窺う事のできない顔とは裏腹に、体から噴出す凄まじいほどの殺気がその場に居合わせた者達を恐怖で居竦ませる。 先程まで物見高く俺を囲んでいた野次馬どもは、今や後悔の色を浮かべながらただひたすらに息を詰めて、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
カカシはすうと目を細めながら、汚れた方の頬を俺に向かって突き出して見せた。

「・・・・・あんたが舐めて、綺麗にして?」

殺気に気圧された俺の心臓がきゅうと縮む。どっと噴出す冷や汗に体を濡らしながらも俺は震える足を踏ん張って、わざと不遜な態度できっぱりと言った。

「嫌、です。」

ヒラマサも、周囲の者も。一斉にゴクリと息を呑んだのが分かった。
俺は瞳をカカシから逸らさなかった。強い意志を以ってカカシに抵抗を示す。

俺はまた鞭で打たれるのだろう。きっとカカシから拷問にも似た激しい暴力を受ける。

以前はそれに屈服し諦めに全てを差し出していた。だが、最後の最後で譲れないものがある事に気付いた。好きにするがいい、と俺は思った。

煮るなり焼くなり、好きにするがいい。だがもうどんなに痛めつけられても俺はあんたに頷かない。
どんなにあんたが俺に鞭打ち、俺の全てを貶めるように体を弄っても。
心までを冒すことはできない。心までをあんたに明け渡す事は決してしない。
例え、鞭打つあんたの手が止まらず、俺を死に至らしめる事になっても。絶対に。

カカシは俺の言葉に打たれた様に、ひくりと体を震わせた。一瞬その顔に浮かんだのは憤怒だったのか、それとも何か別のものだったのか―――。判別のつかぬままにビシリ、と激しい音を立てて硬いものが俺の頬骨を強襲する。そのあまりの勢いと激痛に、ふらつく体が知らず何歩か後退さる。チカチカと眩暈がして倒れてしまいそうだった。
一体何が起こったのか、速過ぎて分からなかった。
渾身の力を込めて踏み止まり、何とか顔を上げた俺の瞳に、鞘を外さぬままの脇差しを手にするカカシの姿が映った。俺はようやくあの脇差しの鞘の部分を頬に打ち付けられたのだと分かった。ジンジンと痛みを訴える頬が燃えるような熱を帯びていた。鼻先からツウと生暖かい液体が垂れるのを感じながらも、俺もまたそれを拭わずにカカシに対峙した。カカシは奇妙な形に唇を歪め、嘲笑うかのように言った。

「あんたに断わる権利はないでしょ・・・?上官命令に背いて無事でいられるって思ってるの?高々凡庸な中忍風情が。」

威圧的な言葉と共に再び振り上げられた脇差しが俺の顔面に打ち下ろされる。容赦なく力の込められた一振りに頭の芯がぶれる。今度は打ち付けられた米噛みの辺りが裂けて血を噴いた。食いしばった歯がギリと音を立てるのを聞きながら、それでも俺は言葉を翻さなかった。

「・・・・命令違反でも、納得できないものには従えません。罰ならば・・・・甘んじて受けます。」

挑むようにぐいと顎を反らせる俺に、「上等、」とカカシは鼻先で笑って小さく呟くや否や、今度は俺の肩口に脇差しを振り下ろした。肩から二の腕、そして脇腹に。腿に。カカシは手を休めることなく渾身の力を込めて、何度も脇差しを俺の体に打ち付けた。 水をうったような静けさの中に響き渡るのは俺の肉と骨を打つおぞましい音ばかりだ。何度打ち付けても振り下ろされる力は緩められる事はなく、一体どれくらい打たれた頃だろうか、俺は遂に思わず膝をついていた。意識は朦朧として体中が粉々に砕け散ってしまったかのようだった。それでもカカシは俺を苛む事を止めず、息を荒げながら打ち続ける。黒かった筈の脇差しの鞘は俺の血に濡れて今は赤く染まり、その先から滴を零していた。

もう限界だ・・・・

崩れ落ちた俺の体を受け止めた地面はひんやりとしていて、熱を帯びた俺の頬に心地良かった。ぼんやりとした視界にまだ尚打ち下ろされようとする脇差しを認めたその時。

「やめてください・・・・!」俺を背中に庇うように黒い影が割って入った。

「これ以上やったら・・・イルカが・・・イルカが死んでしまう・・・・・!隊長はイルカを殺す気ですか・・・・!?」

俺は薄れ行く意識の中でその声にハッと体を震わせた。一生懸命目を凝らしてみても、ぼやける視界はその影しか映さない。でも間違いはない。俺を庇うその声は。間違えるはずがない。
打ち下ろされた脇差しは俺ではなく、黒い影を容赦なく叩いた。ビシリ、という一際派手な音と共に呻き声が上がる。
俺はぎくりとしながら止めさせなくてはと必死で思う。しかし限界を超えた体はぴくとも動かず、失いかかった意識を止める手立てはなかった。

どけ、とカカシの叫ぶ声が聞こえた。
嫌です、と答える声が聞こえた。

俺は友達を見殺しになんてできない。

その声を泣きたいような叫びたいような気持ちで聞きながら、しかしどうする事もできずに俺は意識を手放していた。

ヒラマサが俺を。友達と言ってくれた。分かってくれた・・・・
俺はまたあいつの顔を拳骨で殴る事ができるんだろうか・・・・

ヒラマサの身を案じながらも、沈んでいく意識の中で次に目覚めた時の事を思って、俺は薄っすらと微笑を浮かべた。

 

しかし俺が目覚めた時、その戦線にヒラマサの姿は既になかった。
うろうろとその姿を求めて彷徨う俺に、お節介な奴らが皮肉混じりに教えてくれた。

お前みたいな淫売野郎を庇ったために、あいつは馬鹿を見て。
お前はこうしてのうのうと生きてやがるのに。

ヒラマサは上官に背いた罰を受けて激戦区の最前線に送られていた。
その前線が敵の奇襲に全滅したと緊急の伝達があったのは、それから間も無くしてのことだった。

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