それは記憶の断片が見せる現実なのか。
それとも全てが作り出された夢なのか。

満天満地の月光の中
それでも妖しき闇は密かに蠢き、
目の前の美しい人の姿に影を落とす。

思い出せるのは、ただ自分を呼ぶ整った唇の形だけ。
重ねられた唇が、禁術だ、と囁きながら、舌つたいに種を押し込む。

嚥下とともに種は胸に着床し、火柱を上げて萌芽する。
胸を焦がす火の種は、やがて蔦の様にするすると伸びて、
紅蓮の炎を彼の左手くすり指に絡みつかせる。

轟々と燃え盛る炎に包まれながら、彼は薄く微笑んだ。
音もなく整った唇が言葉を紡ぐ。

どうか、忘れないでいて

全ての記憶を失ったとしても、絶対に俺はあんたに辿り着くから。

 

天に在らば比翼の鳥 地に在らば連理の枝

 

 「うわ・・・・久し振りにあの夢を見たよ・・・・」

イルカは掠れた声でそう独り言ちながら、目覚めている事を確かめるように、何度も顔を両の手のひらで擦った。ぐっしょりと寝汗に濡れた寝巻きが、嫌な感触でイルカの体に纏わりつく。

どれくらい振りだろうか、この夢を見るのは。何て寝覚めの悪い。

イルカはのろのろとベッドから起き上がると、真っ直ぐに洗面所に向かった。夢の余韻を洗い流すように冷たい水でばしゃばしゃと顔を叩くと、いつもの現実が戻って来る。顔を上げた鏡に映る自分の顔には、もう怯えは残っていなかった。それに安堵しながらも、どうしてなのかとイルカは訝しむ。

どうしてなのかな・・・。夢の内容はそんなに悪いものでもないのに・・・・。

それどころかあの夢を見ている間は、何処となく切ないような甘い疼きを感じるのに、起きる頃には追い詰められたかのような脅迫観念が自分を支配している。漠然とした不安が胸を塞ぎ、なんとも寝覚めが悪い。何時の頃からか、イルカはこの不思議な夢を度々見るようになっていた。それは10年前くらいからだった気もするが、それも定かではない。いつも夢は同じ内容で、同じところで途切れる。夢とは思えないほど明瞭なその世界で、自分と対峙する人物だけが曖昧で、いつも顔を持たない。顔を持たないのに、自分はその人を美しいと知っている。

「何だかなあ・・・・・。」

呟きながら、鏡の中に映った自分の顔に、イルカは思わず失笑した。

たかが夢になんて顔してやがる・・・。

イルカはぴしゃりと自分の顔を叩くと、「今日も気合いれてくぞ!」と自分自身を奮い立たせた。

 


「イルカ先生、コンニチハ。今日も可愛いですね〜。」

はい、これ報告書、と言いながらニコニコと微笑む男に、イルカは営業用の笑顔を引きつらせた。ふざけた言葉をほざく男の名前は、はたけカカシ。知らぬ者はいないというほど高名な上忍だ。木の葉の里内のみならず、その実力は遠く諸外国にまで届いている。本来ならば言葉を交わす機会すらないであろうカカシとは、ナルト担当の上忍師として知り合った。できれば知り合いたくなかったいうのが、今のイルカの本音だ。イルカはいつも自分をからかうような言動をするその男が苦手だった。その言動にいちいち赤くなったり青くなったり反応してしまう自分も嫌だった。からかいは愉悦なのか蔑みなのか。そんなことまで考えてしまう。

「男に可愛いなんて言っても意味ないですよ。誰か別の、女の人にでも囁いてください。」

イルカはなるべく平静を装いながら、報告書を受け取った。その時微かに触れ合った手を、カカシがガシッと握り締める。イルカがえっ!?と思った瞬間には柔らかいものに唇を塞がれていた。大きく見開いた瞳に映る、近過ぎるカカシの顔。つまり自分は今・・・。

キ、キキキ・・・・・・・キス、されてる・・・・っっっ!?

動揺のあまり、悲鳴を上げそうになって少し開いた口に、待ち侘びたとばかりに遠慮会釈なくカカシの舌が差し込まれる。その舌つたいに、何か甘酸っぱい果実のようなものを口の中に押し込まれ、イルカは更に動揺した。何時の間にか自分をがっしりとホールドした腕を、イルカはじたばたと渾身の力を込めて振り解こうとしたが、全く無駄骨だった。その間もカカシの激しい舌使いに、押し込まれた果実のようなものが潰れて、イルカの口中を甘い汁で満たす。ぴちゃぴちゃと耳に届く淫靡な水音に、耐え難い羞恥に頭が痺れた。散々イルカの口内を堪能した後、カカシはようやく唇を離した。深い口付けを証明するように、離れた互いの唇を淫らな銀糸がツウと繋いだ。

「イルカ先生・・・」うっとりと溜息を漏らすカカシの隙に乗じて、イルカは躊躇いなく拳を振るっていた。

「何すんだっ、この変態野郎ーーーーーーーっっっ!!!!!」

怒号と共にカカシの顔面にイルカの拳がクリーンヒットし、カカシの体が後方へ吹き飛ぶ様に、先ほどから居た堪れない雰囲気だった受付所は更に温度を冷やす。「「「ひーーーーーーーーっっっ!!!!」」」と誰もが心の中で悲鳴をあげながら、上忍に逆らってしまったイルカの身を心配して、神よ、と心の中で十字を切った。
しかしカカシはウルッと涙で目を滲ませながら、「酷いれすよー・・・いるかてんてー・・・。」とスンスン鼻を鳴らすばかりだ。顔面を殴られた衝撃で痺れているのか、呂律が回っていない。それがカカシの情けなさを増して見せた。

 「酷いのはあんただろうが!!こ、こんなところで、ああああ、あんな・・・・キ、キ・・・・」

イルカは怒りのままにそこまで言って、先ほどの濃厚なキスを思い出し、茹蛸のように顔を赤くした。幾らこの腐れ上忍を詰っても気がすまない・・・!起こってしまった事実は消せないのだ。イルカは少し泣きそうになりながら、言葉を続けることができなくて口をパクパクさせていると、カカシが拗ねたように言った。

「・・・だって、イルカ先生が他の奴に可愛いって言えって言うから・・・悲しくなっちゃって。俺が可愛い・・・!って思うのはイルカ先生だけなんです〜。どうしたら俺の思いが伝わるんですか?・・・・俺の方こそ悩んじゃって、こんなお呪いに頼るくらいですよ。」と、パクパクさせるイルカの口に、何やらまた果実のようなものを押し込む。

「な、何なんですか一体・・・!?」

イルカが今度はその果実をプッと吐き出してみると、それは野苺の実だった。よく見ると、カカシは野苺の鉢植えのようなものを手にしていた。

あそこから毟って、俺の口に押し込んでいたのか・・・!?一体何のために!?・・・おかしすぎる・・・・!!!

カカシのあまりに訳の分からない奇行に、常識家のイルカは怒りも忘れて呆然とした。イルカには理解できないこの一連の行為も、カカシにはちゃんと筋道が通っていることらしかった。

「このワイルドストロベリーを好きな人に食べさせるとね、恋が実るってサクラに聞いたんですよー。だから早速試してみました。わらにも縋る思いっていうの?俺、マジなんですよ、イルカ先生。」

イルカ先生つれないんだもん、と口を尖らすカカシに、イルカの隣の女性職員が視線を外したまま、ぼそりと呟いた。

「ちょっと違います・・・ワイルドストロベリーの花を咲かせると、恋が実るんです・・・・」

その言葉にイルカはくらりと眩暈を覚えた。

くそっ。皆面白がってるな・・・。花でも実でも関係ねえだろ、だって、この上忍は・・・・

じろりと睨み付けるイルカの視線を他所に、カカシはにこやかに笑いながら銀髪をガシガシと掻いた。

「えー!?そうだったっけ?失敗失敗!」やり直しだなあ、もう。

失敗と言いながら、その顔に後悔の色はない。そりゃそうだ、カカシは確信犯なのだから。性質が悪いとイルカは顔を顰めた。どうしたら止めてもらえるのか。イルカのこうした激昂さえ、カカシの楽しみの範疇なのだ。反対にカカシの悪ふざけは、イルカの許容をどんどん超えているというのに。

嫌だな。

もやもやとした暗い感情に、イルカが俯いたまま黙り込むと、カカシが不意にイルカの胸を指先で突いた。イルカの心臓の上を。驚いて顔を上げるイルカに、カカシは嫣然と微笑んだ。

「野苺の実が、ここで芽を出すかもよ?」

あんたの赤い赤い血を吸って。見たこともないほど赤い実をみのらせる。

小声で囁かれたその言葉に、イルカはぞくりと背筋を震わせた。瞬間今朝方の夢が鮮明に頭に浮かぶ。

胸から芽吹いたものは、何だったのか。

ガンガンと痛む頭を堪えながら、「趣味が悪いですよ、カカシ先生・・・」とイルカはやっとのことで口にすると、カカシを睨み付けた。睨み付けたつもりだったが、その瞳は不安に揺れて弱々しいものだったかもしれない。

その時。

片方だけ晒された、カカシの天青石のような右目の中で、赤い火花が散ったような気がした。

 

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