(2)

目をパチパチと瞬かせながら、男はゆっくりと体を起こした。
寝惚けているのか、辺りを見回す動きは恐ろしいほど緩慢だ。
カカシは男の様子を茫然と見詰めていたが、再び自分の上に戻って来た視線にハッと正気付いた。
「ねえ、もう大丈夫なの?何処も具合の悪いところは無い?」
思わず駆け寄って矢継ぎ早に質問を繰り出す。相手が植物だという事は忘れていた。
いや、正確に言えば勿論心に留めてはいたが、目を開けたのだ。そして自ら起き上がって感情を伴った深い瞳で自分を見詰めたのだ。

ただの植物なんかじゃない、

カカシは喩えようも無いほど興奮していた。

植物なんかじゃない、この男は人間と同じだ。同じなんだ。

「あんた昨日雨の中で倒れていたんだよ。止むに止まれず、地面から引っこ抜いちゃったけど…不味かった?」
カカシは更に膝一つ分詰め寄って、男の黒い瞳を覗き込んだ。ずっと見たかった瞳だ。
闇と同じ色をしながら、その瞳は明るく澄んでいた。

不思議だな…

カカシはジッとその瞳を見詰めた。やはり記憶の中の少年に似ているような気がした。
一度欲が叶えられると、更なる期待にカカシの胸は高鳴った。今度は男の声が聞きたくてたまらない。
何も答えない男に返事を急かすように、カカシはもう一度質問を繰り返した。
「具合悪くない?」
しかし男の反応は鈍く、カカシの質問に何処か困ったように首を傾げるだけだった。

どうして何も答えないんだろう?

カカシはじれったさに歯噛みした。
「俺の言ってる事、聞こえてる?ねえ、俺の事が分かる?」
男は揺れる黒い瞳でカカシの口元を一生懸命見詰めていたが、すぐに少し悲しそうな顔をして首を横に振った。
カカシの言っている事が分からないとでもいう風に。そして必死な様子で口をぱくぱくとさせた。
その様子にカカシは胸をドキリとさせた。
懸命に開かれる口。そこから零れるはずの声音は無かった。

唖なのか…

少しだけがっかりしながらも、カカシは男の唇の動きを読もうと努めた。
兎に角、体の調子だけは知っておきたい。もう命に別状は無いのだと安心したかった。
しかし、写輪眼を使ってみても一向に男の唇の動きが読み取れない。

そんな馬鹿な…

男はカカシの全く知らない言葉を喋っているようだった。千の技をコピーしたように、諸外国の言語も殆どコピーしている。読解できない
言葉は無いと言い切っていいくらいだ。それなのに。

やはり植物なんだろうか…?こんなに人間のような形をしておいて…言葉や心といったものは持っていないんだろうか…?

元々意思の疎通など無理な話だったのかと考えて、カカシは胸が疼くのを感じた。

俺は何を期待していたんだ…?馬鹿馬鹿しい…

種一つに振り回されている己の滑稽さに腹立たしさを覚えた瞬間、男が突然カカシの手を握った。

え…

驚くカカシに男が軽やかな風の様にふうわりと笑った。沈んだ顔をするカカシを励ますように。
その笑顔は穏やかで、握った手はとても暖かだった。言葉の無い静かな空間がその暖かい空気に満たされていく。
誰かの体温を感じる事は久し振りのことだった。体温と感じる事さえ馬鹿げているのかもしれないが。

心地いい…

カカシはその温もりに自分が如何に凍り付いていたのかを知った。




にこにこと微笑みながら手を握る男を見詰めるうちに、カカシも知らず微笑を浮かべていた。
言葉がなくたって、上手くやっていける。そんな気がしていた。
男の手は暖かく、何よりもその笑顔は煤けた陋屋をパッと明るくした。
それだけで十分じゃないか。今やカカシはそう思っていた。
「ねえ、お腹減ってない?何か…食べる?」
ふと食事の事が気になって、カカシは言葉が通じないという事も忘れて男に問い掛けていた。
案の定男はきょとんとしたまま首をかしげている。
仕方が無いなあと苦笑しながら、カカシは立ち上がって冷蔵庫の中を物色した。
空っぽの中身に、そういえば帰ってから一度も買出しに出ていなかった、と舌打ちする。

種の成長が気になって…俺は外の出ず兵糧丸や携帯食で済ませてたんだっけ…

自分の食への関心の薄さに今更ながら呆れながら、男の方へと振り返る。

食事…するのかな?

今一つ分からなかった。地面から生えている時にはコップ一杯の水を与えてやるだけでよかったが、それでいいのだろうか。男がその口を開いて何か教えてくれる事を期待していたが、今はそれが望めない事も分かっている。

食べるにしろ食べないにしろ、兎に角何か料理して出してみよう。後はこいつが決めるだろうし…

何を作ってやろうかとカカシはあれこれ頭の中で考えた。

何だったら食べるんだろう…何が好きなんだろうか…?

普段は面倒臭い家事のひとつに何処か謎解きのような愉悦を感じた。カカシは酷く浮き立っていた。
しかしすぐに問題に行き当たってその顔を曇らせる。食料調達の為には街まで足を運ばねばならない。街までそう遠くは無いが、それでも優に半日は家を空ける事になるだろう。その間、男をどうしたらいいのか。

この家に一人で留守番をさせても大丈夫かな…

想像するに、何だかとても心許無い。だが一緒に連れて行くのも不安だ。
自分の肩書きは連れている相手にまで興味を抱かせる。この男の存在を誰にも知られたくなかった。特に火影の耳に入るような事態は避けたかった。

やはり置いて行こう。

カカシは一応簡単な戸締りをすると、男の手を引き男を縁側に座らせた。男の大好きな暖かな日の光がさんさんと降り注ぐ場所。きっと気に入るに違いない。半日くらい、この男はゆうるりと微笑みながらこの場所に座っているだろう。
「すぐに帰ってくるから、ここにいてね?」
無駄とは思いつつも、カカシは必死で縁側をトントンと叩き、お願いするように頭を下げた。我ながら伝わり難い身振りだとカカシは己の不恰好さに赤面した。伝わらないかもしれないこんな無駄な事に時間を割くくらいなら、家の戸を閉めて閉じ込め、逃げ出さないように縄で縛っておく方が確実な方法だ。これが忍の任務だったら絶対に確実な方を取っている。

でも、そんな事したくない…

ただでさえ言葉の通じない相手を不安がらせるような事は、決してしたくはなかった。本当は何処かへ行ってしまうのではないかと心配でたまらなかったが、男のふらふらとした足取りに、例え逃げ出したとしても探し出し追い付く事ができるだろうとカカシは計算していた。だから男の自由にさせる。それでも何処か不安で、
「何処にも行かないでよね?」
手を取って念を押すと、男はまるで言葉を解したようにニッコリと笑った。カカシにはそれがとても嬉しかった。
「急いで行ってくるね、」
カカシは宣言通り、疾風の如き物凄い速さで買出しを終えると全力疾走で家まで帰った。
玄関の鍵を開けるよりも先にそのまま縁側へ回った。そして飛び込んできた光景にカカシは息を止めて呆然と立ち尽くした。両手に抱えた荷物がドサドサと地面に滑り落ちる。

縁側に男の姿は無かった。





何処に行ったんだろう…?一体何処に…

カカシは男のふらつく足元を思い浮かべた。
心許無い足取り。まるで初めて歩く子供のような。それも当然だ。男の足には昨晩まで根が張っていたのだから。
まさかそんな状態で一人で外へ出るとは思っても見なかった。何処へも行けないだろうと高を括っていた。

だけど男がいない場合だって考えていたじゃないか…今更何をそんなにうろたえているんだ…?
すぐに追いかければ済む話だ…どうせそんなに遠くへは行っていない筈だ…

そう思うのにカカシは落胆の色を隠せなかった。
「何処にも行かないでよね?」と念を押した時ニッコリと微笑んだ男の姿が浮かぶ。
あの時気持ちが通じたような気がしていた。「何処にも行きませんよ」と男が答えてくれた様な気が。
浮かれた自分が馬鹿みたいだった。

すぐに帰ってくるって言ったのに…

今更ながらに伝わらない言葉がもどかしい。
足元に落とした紙袋からは林檎が飛び出し、ひしゃげた角には割れた卵がジワリと染みを作っていた。
卵は全滅かもなと思いながら、それどころか全ての食料が無駄になりそうな予感がした。
堪らない気持ちになって、カカシは転がる紙袋もそのままに駆け出していた。
おおい、と声に出して叫びながらカカシは男の姿を捜した。
すぐに見つけられる筈の男の姿はなかなか見つからず、良くない想像がカカシの頭をいっぱいにした。
なにしろ大人の男の姿をしていても、昨夜までは地面に植わっていたのだ。
生まれたての赤ん坊の様にまだ何の知識も無いに違いない。なんて危なっかしいんだろうか。

ひょっとして、何処かで怪我をして動けなくなってるんじゃないか…?

そう考えて、カカシはすぐに思い当たる場所があった。
家のすぐ近くに小川が流れていて、その脇が急勾配になっている。
草木に隠れて分かり難く、初めて歩く者は足を滑らせてしまう危険があった。
まだそこは探していない。

そうだ、あそこが怪しい…!

一度そう思うと、なんだか本当にそこに男が怪我をして倒れているような気がして、カカシは夢中になってその場所まで走った。

植物の怪我ってどうなんだろう、普通の手当てでいいのかな。
怪我が酷いと手折られた花の様にすぐに萎れてしまうものなんだろうか…?

よく分からない事が多すぎて不安は募るばかりだった。
だから少し。自分の事に対して注意不足になってしまった。
聞こえてきた小川のせせらぎにカカシが更に足を速めた瞬間。踏み出した足の下に地面は無く、カカシは心配していた急勾配を自分で転がり落ちる羽目になった。ゴロゴロと転がり落ちて。カカシは暫くそのまま起き上がれないでいた。

情けなさ過ぎる…しかもなんだか足痛いし…

どうやら右足首を捻挫してしまったようだった。大した事は無いがカカシを落ち込ませるには十分の痛さだった。

何やってるんだろう、俺…

カカシはノロノロと起き上がり周囲を見渡した。男の姿は見当たらなかった。
その後もカカシは足を引き摺りながら男を捜した。少し離れた場所まで足を伸ばしてみたが結局は徒労に終った。

…とうとう見つからなかったな。

落ちてきた陽にカカシは一旦家に帰る事に決めた。夜間も捜索を続けるには装備が整っていなかった。

もう一度、色々準備してから出かけよう…

漸く戻って来た家を前にカカシは玄関の鍵をあけようとして、ふと手を止めた。

そうだ…庭先に買出した食料を落としたままだったっけ…

仕舞っておかなくちゃな、と庭先に回る。すっかり陽の落ちた庭先は真っ暗だった。庭に植わった木々も縁側も暗闇に染まりその輪郭を失っていた。真っ暗な、何も無い世界。これが当たり前だとカカシは思った。

これが当たり前だった…ずっと…この家には何も無かった…俺には何も無かった…それが当たり前だったのに…

ぎゅうっとカカシの胸が痛んだ。以前は何も感じなかったのに。
立ち尽くすカカシの体に冷たい夜の風が容赦なく吹き付ける。その風にカカシがブルリと体を震わせた瞬間。
強い力で、ぎゅっと手を握られた。
カカシがハッとして握られた手の方を向くと、涙に濡れる黒い瞳が恨みがましくカカシを見詰めていた。
「あんた一体何処行って…」
言いかけたカカシの言葉は、男の瞳からボロボロと零れる大粒の涙に遮られた。
男は泣きながらもぎゅうぎゅうとカカシの手を握り締め離さない。少し痛いくらいだ。

俺よりもずっと冷たい指先…それなのにあったかいと感じるのは何故なんだろう。
何よりも…明かりも無い中で、どうしてこの男だけは輪郭を失わず俺の目に映るんだろう…?

よく見ると男は酷い有様だった。やはり何度か転んだらしく、体は泥だらけで葉っぱや枯れ草がついている。
足元は更に悲惨で、何処か切ったのか泥の他に赤い血で汚れていた。余程長い間歩き回っていたに違いない。
カカシは胸の奥が熱く濡れるのを感じた。
「…ごめんね…」
思ってもみなかった言葉がカカシの口をついて出た。
思い違いかもしれない。でも。
男が何故外へ出たのか分かった気がした。
カカシは震える男の体を宥めるように優しく抱き閉めた。
「ごめんね、俺を探していたんだよね…?一人で置いて行ってごめんね…淋しかった?」
子供の様にしがみつく男の腕に、どうしてなのか、カカシは泣きたくなっていた。





この人は大人の形をしているけど、中身はまるで子供なのだ。
置いて行ったのは失敗だったと、カカシは男の傷付いた足を手当てしながら後悔した。

それにしても…

傷口から滲む赤い液体をカカシはしげしげと見詰めた。

血が流れているんだな…俺たちと同じ赤い血が…

植物が怪我をして赤い血を流すなんてありえない。やはり目の前の男は人間なのだとカカシは気分を高揚させた。
男の足に包帯を巻き終わると、カカシはテーブルの上の紙袋を弄った。
「買い物に行ってたんだよ。あんたの好きなものはあるかな…」
林檎、蜜柑、肉に魚。野菜も青物から根菜まで、出るわ出るわよくぞ一人でここまでという食料が次々と姿を現す。
全部が袋に整然と詰まっていたのが嘘のようだった。我ながら良く底が抜けなかったものだと苦笑する。
男も袋から次に何が飛び出すのかと、興味津々といった様子で覗いていた。
その姿にカカシの顔も知らず綻ぶ。
「最後は卵…っと、これは全滅かな…派手に落としちゃったからね…」
パックからとろりと流れる黄色い液体にカカシが頭を掻くと、男は可笑しそうに肩を揺らし大きく破顔した。

あ。笑った。

カカシはそれだけで何となく嬉しくなった。さっきまで泣いていた。漸く笑ってくれた。
「流石にこれは使えないかな…?」
奇跡的に無傷の卵を二つ取り出すと、カカシは砕けた卵を流しに捨てようとした。
その手を男が慌てたように押し止める。
「何…?」
よく分からないながらも、カカシはちゃぷちゃぷいう卵パックを流しの横に置いた。

まさか生卵を飲むのが好き、とか。

自分で考えて、そんな訳あるかと馬鹿馬鹿しさに赤面する。

まあ、これをどうしたいのかそのうち分かるだろう。

カカシは気を取り直して包丁を握った。
「ええと、お腹すいたでしょ?今すぐに作るから待っててね。」
カカシはひょこひょことびっこを引きながら、台所で忙しなく働く。

米を研いで。それから味噌汁を作って魚を焼くか。

食べてくれるかなと考えながら作業をしていると、男がカカシの袖をくいくいと引っ張る。
「ん?なぁに?」
手を止めると、男はカカシの手をぐいぐいと引っ張って、椅子に座らせてしまった。
「え、何々?どうしたの?」
訳が分からず困ったように男の顔を覗き込むと、男がカカシの右足をポンポンと叩いた。怒ったようにカカシの足首を指差す。

あ、捻挫…?捻挫を心配してるのか…?

そんな気持ちもあるなんてと吃驚していると、包丁を取り上げられた。
当然の様に台所に立つ男の姿に、カカシは驚きを通り越して混乱した。

え?え、ええ…?

のろのろと相変わらず男の動きは緩慢なのに、ことことと包丁が俎板を叩く音は意外に軽快だ。
「ちょ、ちょっと…」
まさか料理ができるっていうのか…?

腰を浮かしかけるカカシの気配に気付いて、男が振り向く。ゆっくりと心許無い足取りで近づいてきた男は、今度はカカシの両肩をポンポンと叩いて、腰を下ろすようにと促した。何ができるのかと戦々恐々としながらカカシは男の背中を見詰めた。

昨日まで地面から生えてたのに…まともな料理ができるとは思えない…

男は潰れた卵も使っているようだった。あのまま使うのかなあとそわそわしながらも、カカシは何処となく楽しい気持ちになっていた。
こうして誰かに食事を作ってもらうなど、ずっとなかった。
男がテーブルに並べたのは焼け焦げて身が崩れた魚と、ありえないほどでかい卵焼きに青菜の味噌汁とご飯だった。
質素な上見た目も悪い。それなのにどうしてだろう。とても食欲が湧いた。
「あんたは食べないの…?」
ニコニコと自分を見詰める男にカカシはふと尋ねた。
魚は一尾、椀や皿は一枚ずつしかテーブルに乗っていない。それともこれで二人分なのだろうか。
疑問に思いながらも、早く食べろと言わんばかりに男に箸を握らされて、
「いただきます、」
カカシは問題の卵焼きに恐る恐る箸を伸ばした。
誰かの家で振舞ってもらう食事は嫌いだった。長い月日の中、ずっと一人暮らしのカカシを慮って、家庭の味とやらに招待を受けることが間々あった。「大したもんは無いけど、」と当たり前の様に母親や恋人に用意させた料理でもてなす。
それがどんなに豪勢な食事であっても、どんなに温かで美味しいものであっても、冷たい泥を啜るかのようだった。まるで味がしない。それなのに。

…おいしい。

でかい卵焼きは案の定、ざりざりと細かい殻が舌に残るのに。

おいしい。すごく…。

カカシは卵焼きを頬張りながら心からそう思っていた。
「あんた料理が作れたんだね…どうして?どうしてこんな事できるの?すごく不思議…」
カカシは目の前で微笑む男をじっと見詰めた。
「あんたは誰…?本当は何処から来たの…?」
尋ねても栓の無い事を口にする。
男はその晩結局食事を口にしなかった。コップの水を少しずつ啜る以外、何も。
その姿にカカシは夢から覚めたようにハッとした。
コップ一杯の水で生きながらえる植物なのだと現実を突きつけられた気がした。
少しだけ、カカシの胸が痛んだ。




続く