第十回

 

 

『直にあんたをアッと驚かせるような出来事がありますよ〜』

男が最後に残した言葉が気に掛かり、イルカはここ数日受付の仕事にも身が入らなかった。

あの人の言う「アッと驚かせるような出来事」って、まさか大賀上忍の死について…何か勘付いたんじゃ…?

万が一に備えて、蜂巣に連絡を取っておいた方がいいか…?

眉間に深い皺を寄せるイルカを、卓上に飾られた純白の蓮の蕾が和ませる。

アカデミーを卒業したばかりの元・教え子、うずまきナルトが先ほど持って来たものだ。鍛錬場へ向う途中の道に手折られて捨てられていたのを、ナルトが拾って来たのだ。

「俺もう、家に戻っている時間がねえし…ずっと持ってたら、それこそ枯れちゃうだろ?まだ蕾で咲いてもいないのに、可哀相だってばよ。」

だからイルカ先生、俺が戻るまで預かってて。

下忍昇格試験に向けて、サスケやサクラと一緒に自主鍛錬しているナルトは時間を気にしながらも、息せき切って、花の蕾の為に走ってきたのだ。

そんなナルトがイルカは堪らなく愛おしかった。

蓮の蕾にナルトの姿を重ね、

はやく花が咲くといいな…

イルカが微笑みながら見詰めていると、

「おい、これをさっさと処理してくんな、」

突然報告書をバサリと顔に叩きつけられた。

イルカがハッと顔を上げると、

「どうしたよ?なんか文句があるか?」

にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる上忍が腕組して立っていた。その男の後ろでは仲間と思しき上忍たちが同じようににやにやと、侮蔑の眼差しをイルカに送っている。その中に一人だけ顔を俯ける、よく知った鳶色の瞳の青年を見つけて、イルカは眉を顰めた。

ハッチの奴、何顔俯けてんだ…?これくらい日常茶飯事だろうが。皆に不審に思われるぞ、ちゃんと顔上げとけよ全く…

心の中で、顔を俯ける青年を叱責しながら、ふうと密かに溜息を吐く。

日常茶飯事とはいえ、正直この手の嫌がらせにはうんざりする。

だが、表情に出すと相手を煽るだけだと分かっているので、そんな感情は億尾にも出さない。

イルカは何事もなかったかのように、叩きつけられた報告書を手に持ち直すと、「お預かりいたします、」と丁寧に頭を下げた。

「書類を顔に叩きつけられて何も言わねえなんて、こいつは大した腰抜けだなあ!」

「そりゃそうだろ、大賀上忍を殺しておいて責任逃れした奴なんだからよ、忍の風上にも置けねえ、」

無言のまま静かに書類を捲るイルカの傍らで、上忍たちがあからさまにイルカを愚弄する。

だがイルカは眉ひとつ動かさなかった。

その時ふいに上忍のひとりが思い出したように言った。

「そういえば、さっきここに狐憑きが来てたなあ。同病相憐れむとはよく言ったもんよ。爪弾きもの同士、気が合ってるみてえだよな、」

イルカの報告書を握る手にぐっと力が籠もる。

十年の歳月を経ても今尚大賀の件で注目されるのは、ナルトの所為でもあった。

十三年前里を壊滅に追い遣った、九尾の妖狐を腹に封印された子供。ただそれだけの理由で、里の誰からも忌み嫌われ、無視され続けた存在。それがナルトだった。

そんなナルトに気を配るイルカを快く思わない輩は多い。それに大賀上忍を殺したという過去の噂が加わって、イルカはしょっちゅうこうした嫌がらせを受けていた。

だが、別にどうって事はなかった。

ナルトが受けた嫌がらせに比べたら、大した事ではない。そして今、心とは裏腹にイルカを傷つける側に立つ、蜂巣の苦しみに比べたら…

ようやく報告書を確認し終えたイルカが「結構です」と顔を上げると、目の前の男が蓮の蕾がささった瓶を手に掴むところだった。

「これ、さっき狐憑きが持ってきたんだろ?汚らしい…こんなところに飾るなよ!」

 瓶をひょいと高く掲げて見せる男に、

「返してください…!」

イルカは顔色を変えて身を乗り出したが、男はそれを避けると瓶を逆さにした。どぷどぷと零れる水と共に蓮の蕾が床に落ちる。それだけで終りではないと知らしめるように、男がゆっくりと足を上げた。

 蕾を、踏み躙る為に。

「やめろ、頼む…やめてくれ…っ!」

それはナルトが拾ってきた、大切な…

止めようとするイルカを、男の仲間達が力任せに押さえつけた。何処か震える蜂巣もそれに加わっている。

「やめろ―――!!!」

イルカが悲鳴に近い叫びを上げた瞬間。

がらっと受付所の戸が勢いよく開いて、

「ちょっとだけよん、」

ふざけた調子でベストを肩までズリ下げながら、件の銀髪の覆面男が姿を現した。

な、なんであの男がここに…?

神出鬼没な男ではあったが、アカデミー内で姿を見るのは初めての事で、イルカは自分の置かれた状況を忘れて吃驚した。

皆の視線を受けながら、男はアンダーを上げたり下げたり、ちらりちらりを繰り返し、ストリップの真似事をしながら、受付所の奥へと入って来る。

皆も唖然としたが、イルカも唖然とした。男が何をしたいのかサッパリ分からない。

アッと驚かせるような事って、まさかこれ…?

イルカはそう思ったりしたが、どうやら違うようだ。

 男はにこにこと笑みを振り撒きながら、凄まじい殺気をも振り撒いていた。

「踊り子さんには手を触れない~でね、」

 皆殺気に縫い止められて、微動だにできない事を知りながら、男がしゃあしゃあと言う。

 恐ろしいほどの静寂の中、男は蓮の蕾を踏みつけようと、足を上げたまま固まっている上忍の側まで来ると、身を屈めてその足元から蕾を拾い上げた。

「あんたにだけはストリップの続き見せてもい〜ですけど、どうします?」

いつものようにどうでもいい事を言いながら、茫然とするイルカの手にその蕾を握らせる。

手の中の蓮は確かに蕾のままなのに、男に手渡された瞬間ぱあっと花開いたように見えた。

これもまた十年前と同じ男の手品なのだろうか。

何だか胸が詰まる。

「…遠慮します。」

断わる自分の声が震えているのに気付いて、イルカは苦く笑った。

「そ?残念だけど、ま、いっか。」

男はあっさりと引き下がると、「ちゃ〜んちゃらら〜ららら〜♪」と現れた時と同じように、ストリップ紛いの踊りを踊りながら受付所を出て行ってしまった。

何処までも勝手でマイペースな男だ。

それをぼんやり見守っていたイルカは、突然ハッとした。

…俺、ありがとうの一言も言ってない…

馴れ合うつもりはないが、それとこれとは別の問題だった。

嬉しかった。ナルトの優しい気持ちが踏み躙られなかった事が、すごく。ナルトの気持ちを拾ってくれた男の優しさが、すごく。

嬉しかったのに…

思わずイルカは受付所を飛び出すと、

「ちょっと待ってください…!」

遠くなる男の背中を追いかけた。

男は既に大分前を歩いていたが、追い掛けて来るイルカに気付いて、ゆっくりと振り返った。

「なに?やっぱり俺のストリップの続きが気になりますか?」

「ち、違います!」

「それじゃあ、今度はあんたがストリップしてくれるとか…?」

「それも違うッ!」

冗談ばかり言う男に内心怯みながらも、ここまで来たら引き下がれないとばかりに、イルカはぺこりと頭を下げた。

「あの…さ、さっきは、あ、あり、ありがとう、ございました…!」

晴れやかな気持ちで顔を上げると、何故か突然にゅっと伸びて来た男の手に、腋の下をこちょこちょと擽られた。

「うひゃあ!い、いきなり、何すんですか……っ!?

予想外の男の行動に、うひゃひゃと本意でない笑い声を上げながら、イルカは慌てて腋を防御した。

 突拍子もない男の行動に戸惑っていると、男はむすっと不機嫌な様子で言った。

「…あんた、自分の事には冷めてんのに、ナルトの事になると、す〜ぐに熱くなるから…妬けちゃうよ。あんなにいい笑顔でナルトの事で礼言わないで下さい。俺、ナルトに意地悪したくなっちゃいますよ〜」

「は…?」

ナルトに、意地悪したくなっちゃうだって…?

悪意に満ちた男の言葉に、イルカは一瞬にして顔を青褪めさせた。嬉しかった気持ちが霧消する。

この人が…ナルトの心を守ってくれたような気がしていたのに…

俺の思い違いで、あれは本当に落ちていた花を拾っただけの話なのか…?それともストリップの真似事が心底したかっただけのか…!?

イルカは自分の指先が冷たくなるのを感じた。

男のふざけた態度の下に思いやりが隠れているなんて、深読みのし過ぎだったのだろうか。

…俺は何を勘違いして…こいつはやっぱりただのふざけただけの男だったんだ…!

イルカは手の中の蓮の蕾をギュッと握り締めると、脇目も振らず受付所へと走った。

 あんな男、もう絶対に係わり合いになるものか…!

 そう固く心に誓いながら。

 

つづく