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バスジャックの事件は暫く紙面を賑わした。
幼い命が犠牲になったその悲劇性もあるが、一番の理由は勿論キース=スケアクローの登場である。
紅の予見通り、福祉施設の子供の保護者を名乗り自ら遺体を引き取りに来たキースの話は、一種美談めいて報道された。
カメラの捕らえたキースの端麗な横顔が更にその美談を飾り立てる。
一週間もすると報道における事件の悲劇性は薄れて、キースの今後の動向ばかりが取り沙汰にされた。
「映画スターのプロモーションか何かかと思ったわ、宣伝費もかからず随分効率的ですこと!」
紅はテレビの報道ニュースを見詰めながら、忌々しげに手の中の空の紙コップをぐしゃりと握り潰した。
やはり紅はキースのこの一連の行動を、宣伝行為と蔑んでいるようだった。

まあ、これじゃ仕方が無いか…

隣りで同じように画面を眺めていたイルカも溜息をついた。
朝から晩まで飽きもせずにテレビの画面はキースの横顔を映している。キースは事件当日以来マスコミの前に姿を現していないので、使用される映像はいつも同じだ。代わり映えのしない映像を毎日拝まされては、流石にうんざりしてくる。今回イルカは紅に抗議の声を上げなかった。正確に言うと、そうしたくても最早その気力さえ残っていなかったのだが。

このところバスジャック事件の残務処理に追われて、まともな睡眠も取れていないからな…

しょぼつく目の上を軽く揉みながら、イルカは頭の中で今日自分が片付けるべき仕事を考えた。
薬でらりって自動車泥棒を働いたヤングアメリカンの尻を叩き、ミッシングチルドレンを捜す、半狂乱の母親の嘆きに耳を傾ける…。それから、と五つばかり数えたところで首を横に振る。

不思議だよな…幾ら一生懸命仕事を片付けても、未処理の書類は減るどころか山積みになっていくんだから…

椅子に背を預けると、安いスプリングがぎしりと鳴った。
「大分疲れているようね…」
紅が奢りよとイルカにコーヒーがなみなみと注がれた紙コップを差し出す。
「ありがとうございます、でも大分マシですよ…例の…連続殺人事件の犯行が止まってるんで…、」
コーヒーを受け取り、一口啜ってイルカは顔を顰めた。すると紅は揶揄するようにイルカの括り髪を引っ張って笑った。
「あら、ブラックは駄目だった?ポニーちゃん、」
「違います…!お、俺は連続殺人の犯人を捕らえる機会を逸したんじゃないかと…ちょっと心配になったんです、」
「そうね、どうして犯人は殺人の手を止めているのかしら…」
紅もまたその事件の事が気に掛かっていたようで、秀麗な顔に憂いを帯びた表情を浮かべた。
「現場の異常性から考えて犯人はまた同じ事を繰り返す可能性が高いわ…この連続殺人事件はプロファイリングにおいても興味深い事件よ…犯人は一見大胆でありながら現場に髪の毛の一本すら残さない用心深さを持っている…それなのにこれ見よがしに片翼の天使のメモを必ず残していくのは、絶対に捕まらないという自信と自己顕示欲の表れだと思うの…ただ片翼の天使に込められた意味によって、その解釈は大分違ってくるかもしれない…でもこれだけはいえるわ、こうしてわざと手掛かりを残すような遣り方をする奴は、絶対に犯行をやめない…私達に捕まるまでは絶対に。河岸を変えているのかもしれないけれど、同じような事件はまた起こるわ…必ず…!」
紅は口惜しげに爪を噛んだ。それは未然に事件を防げないであろう悔しさからだと知れた。
無残な死体が増えるのを待つ事しかできない。

絶対に捕まらないという自信と自己顕示欲の表れ、か…

紅の言葉を繰り返しながら、イルカは何処かその説明に納得していない自分に気付いていた。
イルカの脳裏にカカシに最後に会った時の場面が思い浮かぶ。
あの忌まわしき売春窟で。
『きっと迎えに行くよ、イルカ』
カカシが嬉しそうに囁き、イルカの鼻の上を横一文字に切り裂いた。
顔を襲う激痛と。傷口を押さえた指の間に見える、カカシの、屈託の無い笑顔と。
痛みと切なさの記憶が今尚イルカの胸を締め付ける。
あの時のカカシの言葉の意味は分からない。でも。
現場に残されたメモの切れ端に、助けて欲しいと、片翼をもがれたカカシが必死で訴えている気がした。

カカシ…

何故か閉じたイルカの目蓋に蛆の湧いた瀕死のトッドの姿が浮かんだ。それがカカシの姿とだぶる。
胸に苦いものが込み上げてきて、イルカは思わず口元を歪めた。
その時、「なんて面ァしてやがる、」と久方振りにアスマがドスドスと姿を現した。
バスジャック事件の実質解決の立役者であるアスマは、署長にNY市警の広告塔よろしく連れ回され、心なしかげっそりしていた。機嫌が物凄く悪そうだ。付き合いの長い紅は無言で自動販売機でアスマの為のコーヒーをいれる。アスマはそれを受け取りながら、代わりに手にしていた書類を紅に渡した。紅はそれにさっと目を通すと、「時には外交も必要ですね、」と珍しく上機嫌で返した。
その書類にすぐに調べたい事ができたのか、紅が一礼してさっさと席をはずす。それをぼんやりと見送るイルカにアスマが頭を掻きながら言った。
「俺も忙しくてかなわん…すまないがイルカ、今日は俺の代りにバスジャックの犠牲者の葬儀に出てくれねえか?」
「え…っ、」
思い掛けないアスマの言葉にイルカは小さく声を上げた。
「気持ちのいい仕事じゃねえが…もう署長に連れ回されるのも限界なんでな、」
頼んだぞ、と有無を言わせず葬儀の時刻や場所の書かれた紙切れを渡され、イルカは目を色黒させた。

い、今の言い草だと署長も一緒、なのかな…

アスマ先輩、また厄介な事をと頭を痛めながら、イルカはその紙切れを開いて瞬間体を強張らせた。
『アーニー=スタンフィールド葬儀』
それはキース=スケアクローが抱き締めた、最後の亡骸の名前だった。

続く