7.蠍の火の停車場

『もうお別れだよ、』
カカシの言葉がイルカの頭の中で、突然の強風に翻弄される風見鶏のようにくるくると回っていました。指すべき方向が定まらない頭に、イルカは言葉を失いました。
(カカシは…今なんて…?)
窓の外には八つの三角標が蠍の尾やかぎの形に並んで、音もなくあかるくあかるく燃えていました。
その赤い火の色に包まれて、カカシの体も赤く見えました。
火というよりそれは。
(まるで血みたいだ…)
ふと浮んだ自分の考えにイルカは身震いしました。
その時イルカの耳に、またぽたぽたと水滴が零れ落ちるような不思議な音が聞こえてきました。この汽車の中でカカシの姿を見つけた時にも聞こえた音です。
(何処にも水気はないのに。一体何処からこの音は聞こえてくるのだろう、)
だんだんとはっきりと聞こえてくる音にイルカが視線を巡らせると、何ていうことでしょう。
カカシの足元に、大きな血溜まりができていました。
(え…っ、)
よく見ると、カカシの腹部がぱっくりと裂け、そこから夥しいほどの鮮血が零れ落ちていたのです。その大きく裂けた傷口がぽたぽたと悲しげな音を立てているのでした。
「カカシ…っ!?い、一体何時の間にそんな怪我を…っ」
慌てるイルカにカカシは青白い顔に苦笑を浮かべました。
「この汽車に乗る前からだよ。」
カカシの言葉にイルカは茫然としました。
そうです、確かに最初からこの音は聞こえていたのです。聞こえていたのに。
(俺は…気付けないで…、)
緩やかに速度を落としていた汽車が静かに止まり、汽車の中が急にざわざわとし始めました。あっちからもこっちからも、子供が瓜に飛びついた時のような喜びの声や、何とも言いようの無い深い溜息の音が辺りをいっぱいにしました。この停車場で降りる人は多いらしく、みんな徐に棚から荷物を下ろし、席を立ち車室の外へと消えていきます。
窓の外の停車場には降りてくる人たちを出迎えるように、神々しい白い着物を着た人々が立っていました。カカシは窓の外にちらと視線を走らせると、ああ、先生だ、と目を細め小さく呟きました。
「もう行かなくちゃ…」
カカシはお腹の傷をおさえながら、ふらふらと立ち上がり、イルカのほうを向いて笑顔を浮かべました。
「ごめんねイルカ…一緒に行けなくて。本当はずっとずっと一緒に行きたかったけど…イルカと一緒にいたかったけど…」

ごめんね

優しい優しいカカシの笑顔。
大好きな笑顔の筈なのに、イルカの胸は痛くてなりませんでした。痛くて痛くて。
イルカの瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちました。
(何かをいわなくちゃ…)
そう思うのに言葉が出てきません。
(カカシを、引き止めなくちゃ…!)
振り返らないカカシの背中。あの背中が車室の扉を開いて、汽車の外に出て行ってしまったらお終いです。

ここでカカシを行かせてしまったら、もう、本当に…

「カカシ…っ!」
イルカは思わずカカシの背中に追い縋りました。
「イルカ…駄目だよ、引き止めてももう駄目なんだ…」
もう何も変えられない。
カカシは全てを諦めているようでした。
(嫌だ…カカシに置いていかれるのは…っ)

もう、あんたに置いていかれるのは嫌なんだ。

しがみつく手を振り解かれそうになった時、イルカは咄嗟にカカシの胸ポケットから鼠色の紙切れを引き抜きました。それはカカシの切符でした。先ほどカカシがそれを仕舞うところをイルカはちゃんと見ていたのです。
リンという少女の切符と同じように、その切符には赤い蠍の絵が描かれていましたが、イルカがそれを目にする事はありませんでした。その絵を見るよりも早く、

ビリビリビリ、

イルカは切符を細かく引き千切ってしまったのです。
呆気にとられるカカシの目の前でイルカが手のひらを広げると、ちょっと前まで切符だった紙切れが、雪の様にはらはらと舞い落ちました。
イルカは満足げにそれを見詰めると、今度は自分の切符をとりだして、ビリリと半分に破きました。イルカの切符は折れ線がついていたので、綺麗に二枚に分かれました。その半分を茫然とするカカシの胸に、とん、と押し付けました。
「俺の切符をあげる、半分にした切符で何処までいけるのか分からないけど、」
ひょっとしたら切符は無効になって、何処かとんでもない場所で降ろされてしまうかもしれないけど。

でも、カカシと一緒なら何処でもいい。

「ずっと一緒に行こう、カカシ…」
イルカが行かせるまいとぎゅうっとカカシにしがみつくと、カカシが最初は躊躇いがちに、だけど次の瞬間には強く軋むほどに、イルカの体を抱き締めました。
「イルカ…イルカ、イルカイルカ…っ」
背中に回された腕の強さにイルカはホッとして胸が一杯になりました。
その時汽笛が鳴り、汽車は再びゆっくりと走り始めました。蠍の赤い火がうしろへと遠ざかって行きます。
(もう大丈夫だ…これでもうカカシと離れる事は無い…)
安心してカカシの腕の中で目を閉じるイルカの意識が、だんだんぼんやりとしてきました。安心して眠くなってしまったのかもしれません。
(まだカカシと話していたいのに…)
まっくらになっていく意識の中で、

ずっと一緒だよ、

カカシの声が聞こえたような気がしました。

続く