不器用だけど君が好き

 

仕事から帰り夕飯の準備をしていると、玄関の戸が開く音がした。

「あ、カカシ先生お帰りなさい」
家を訪れたカカシに、台所から言葉を掛ける。
「……どーも」
他人行儀な素っ気無い返事にも、合わされる事のない視線にも慣れた。
否、慣れたんじゃない。ただ慣れた風を装っているだけだ。
カカシは不器用な人だ。
俺と、どう接したらいいのか分からないだけだ。
日々自分に言い聞かせているとこを、居間に入って行くカカシの背中を見つめながら、今日も例外なく心の中で呪文のように唱える。
それでも出る溜め息を止めることが出来なかった。

それが聞こえたのか、カカシは僅かに肩を揺らしたが、結局何も言ってはくれなかった。

 

 

カカシと付き合って半年になろうとしていた。
身体の関係を持つのは早かった。
しかしそれと半同棲状態ということを除けば、俺達はとても恋人と呼べるようなものではない。
いつも俺ばかりが一方的に話し掛けているし、カカシは未だに名前を呼んでくれたことがない。
”アンタ”か”先生”。それが俺の呼び名だ。
そして俺は”カカシ先生”と呼ぶ。
なんてよそよそしい関係なのだろうか。
以前一度、恋人同士ならもっと砕けた呼び方でも構わないだろうと、『カカシさん』と呼んだことがあった。
するとカカシは見る見る内に不機嫌な顔になったかと思うと、何も言わずに帰ってしまったのだ。
それ以来、恐くて”カカシさん”とは呼べなくなった。

そんな俺達は、ベッドの上でも睦言を交わしたりしない。
ただ、言葉で足りない部分を補うように抱き合う。
けれどそう思っているのは、俺だけかもしれない。
本当のところはどうなのか。
口数が少なく、表情もあまり変わらないカカシからその感情を読み取るのは、俺には無理なことだった。

カカシの気持ちが分からない。

それが不安で仕方がない。
思えば俺は、カカシに好きだと言ってもらったこともない。
言葉でも態度でも、何も示してくれないカカシに、時々詰め寄りたくなる。
しかしそれは出来ない。
何故なら、カカシはあの時はっきりと言ったのだ。

『俺はきっとアンタに優しくできないよ。それでもいいの?』

その言葉を承諾した俺には、カカシを責める権利はない。
おまけに、『その分、俺が優しくしてあげます』だなんて格好をつけたことを言ってしまったのだ。
確かにあの時は、それでもいいと思ったし、カカシの分まで自分が頑張ろうと思っていた。
けれど、 こんな事態を想像していたわけでも、望んでいたわけでもない。
始めはぎこちないかもしれないけれど、きっと上手くやっていけると思っていたのだ。
時間が経てば、きっとお互いに打ち解けられると。
しかし予想に反して、カカシはいつまで経っても余所余所しくて、俺はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。

もっと打ち解けて、いろんなことを話し合いたい。
ちゃんと名前を呼んで欲しい。
一度でいいから、好きだと言って欲しい。

そんな願いは、カカシの言った言葉と、自分の言った言葉で雁字搦めにされて、言葉にすることは出来なかった。


 

出来上がった夕飯を、居間の卓袱台に運ぶ。
その間も、俺達の間には特に会話はない。
カカシは額当てと口布を外し、ぼんやりとテレビを見ていた。
コメディ番組が流れているというのに、カカシはまったく笑わない。
ただすることがないから、見ている振りをしているだけで、おそらく内容など頭に入っていないだろう。
本当に、何を考えているのかちっとも分からない。

 

「飯、食いましょう」
そう声を掛けると、ようやく俺達は向き合った。
けれど、この時も視線が交わる事はなかった。
二人で黙々と目の前のものを平らげていく。
最近は話のネタも尽きてきて、あまりカカシに話し掛ける事ができない。
アカデミーや生徒の話ばかりでは、カカシは退屈だろう。
ナルト達の話題も、以前カカシに『ナルトはもうアンタの生徒じゃない』と言われた手前、言い出す事ができない。
俺達の関係が友人であれば、女性の話や下ネタなんかも有りだとは思うけれど、恋人同士でそんな話は落ち込むだけだ。
それに、カカシがそんな話題にのってくるとは思えない。

俺達の共通の話題なんて、ナルト達のことだけだったのだなと、改めて思った。
だから俺は、必要以上にナルト達のことをカカシに訊ねていたのだと、今更ながらに気がついた。
自覚はなかったけれど、ナルト達を出汁にしてカカシに近付こうとしていたのだ。
カカシが怒るのも無理はない。
さぞ鬱陶しかったことだろう。

そんな俺と、カカシは何故一緒にいるのだろうか。
俺といて楽しいと、思ってくれているのだろうか。
否、楽しいわけはないだろう。
会話は弾まないし、飯も大して旨いわけじゃない。
いつも退屈そうにテレビを見ているし。
じゃあ、何故カカシは俺のところへ来るのか。
答えは一つだ。

 

―――性欲処理

 

自分で導き出した答えに、思いのほか衝撃を受けた。
けれど、一度出した答えは妙な信憑性を持っていて、否定する事ができない。
カカシなら俺を相手にしなくても他にももっといい人がいるだろうと思うけれど、人にはそれぞれ好みのタイプもあるだろうし、男なら孕まないというメリットもある。
そう考えた時点で、カカシに直接聞いた訳ではないのに、それは揺るぎない真実となって、俺の中に根を張った。

大体、俺はなんで恋人同士だなんて思ってしまったのだろう。

『俺はきっとアンタに優しくできないよ。それでもいいの?』

この言葉が、俺の告白に対する返事だと思った。
優しくできないけど、それでもいいなら付き合うと言っているのだと。
けれど本当のところは、恋人にはできないけど、それでもいいなら情人にしてやると言っていたのだ。

俺はなんて馬鹿なんだろう。
好きだと言ってもらったことがないのも当然ではないか。
だってカカシは俺のことなど好きでもなんでもないのだ。
不器用だから、だなんて勘違いもいいところだ。

急激に失せていった食欲に、俺は箸を置いた。
カカシはちらりとこちらを伺うような視線を寄越したが、やはり何も言うことはなかった。

もう潮時だと、そう思った。

 

食事を終えた後、いつも出しているお茶を出さずに、カカシと向き合った。

「カカシ先生、もうここには来ないでください」
カカシの心が自分にないと分かった以上、この関係を続けて行く気力はない。
今までいろんな不満に耐えていたのは、カカシが自分を想ってくれていると信じていたからだ。
それがないのなら、虚しい努力はもう沢山だ。
それに、このところカカシと抱き合う回数が減っていた。
以前はそういう行為をしなくても泊まっていったカカシが、最近は夕飯を食べ、お茶を飲むとすぐに帰ってしまう。
今まで気付かない振りをしてきたけれど、もう自分を誤魔化す事が出来ない。
カカシから別れを告げられるくらいなら、自分から言った方がいい。
その方が、きっと傷は浅いはずだ。
『飽きた』だなんて言われたら、立ち直れない。

 

「……先生?」
俯き、膝に置いた両手を握りしめる俺に、カカシの声が掛けられる。

俺は”先生”なんて名前じゃない。
よっぽど叫んでやろうかと思った。
一体誰を呼んでいるのだと。

そう言えば、以前くノ一に告白されていた時に好きな人がいると言っていた。
もしかしてその人も”先生”と呼ばれる立場の人なのかもしれない。
俺を通して、その人を呼んでいるのだろうか。
嫌な考えばかりが、次から次へと浮かんでくる。

「もう、終りにしましょう」
早く出ていってくれと、心の中で呟いた。
泣いてしまう前に、早く。
これ以上、惨めにさせないでくれ。

カカシはじっと座って何かを考えているようだったが、しばらくするとポケットの中から合鍵を出して卓袱台の上に置き、立ち上がった。
無言で部屋を出て行くカカシの背中を、見えなくなるまで見送った。

玄関の戸の閉まる音が、一人きりの部屋に響く。
カカシの気配が消えて、入れ代わりに入って来た冷たい夜風が、部屋の温度を奪っていく。
身体が震えるのは、寒さの所為だと思いたかった。

最後まで何も言う事の無かったカカシに、やはり自分の存在など取るに足りないものだったのかと、胸が痛んだ。
その痛みを散らそうと、震える手を思いきり握りしめようとしたけれど、上手く力が入らない。

別れと言うのは、実に呆気無いものだ。
自分から終りにしなければ、もう少し一緒に居る事ができただろうか。
早まったかと少し後悔した。
しかしこんな状態で一緒に居たって、いいことなんて一つもない。
ただ苦しいだけだ。

これでよかったのだと、必死に自分に言い聞かせた。

けれど、こんなにも哀しい。
一人になっても、こんなにも苦しい。
よかったなんて、ちっとも思えない。

どうして一緒に居られるだけで満足できなかったのだろう。
どうしていろんなものを求めてしまうのだろう。
カカシの心が自分になくても、一緒に過ごせるだけで、抱き合えるだけで満足できたなら、きっと幸せだったに違いない。
例えそれが、紛い物の幸せでも。

 

堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。


 

この涙と一緒に、カカシへの想いも流れてしまえばいいのに……。

 

 

 

上手くいっていると、思っていた。
それなのに、別れは突然やってきた。

 

 

まったくヘマをしてしまったものだ。
この程度の任務なら、無傷でこなせたはずなのに。
失態もいいところだ。
負ってしまった怪我を見て、俺は顔をしかめた。

―――理由は分かっている。

忘れたくても、忘れられない。


「どーしてかな……」

月の光も届かない真っ暗な森の中で、乱れた呼吸で呟いた声は、思ったよりも響く。
肩と脇腹から滴る血に、酔いそうだった。
けれど、手当てをしようという気になれない。
もうこのままここで眠ろうか。
何も考えないで、この森の闇の中に溶け込めたら、どんなに楽になれるだろう―――。
そう思いながら、目を閉じた。

視覚が遮断されると、一層闇が濃くなった。
けれど、その闇を掻き乱すものがある。
何も考えたくはないのに、それは否応無しに脳裏に現われるのだ。

 

『カカシ先生、おかえりなさい』

 

そう言って微笑むイルカが見える。

イルカはいつも訪れる俺を、そうやって迎えてくれた。
その度に、いつも泣きそうになった。
身体が痺れるような幸福感に、どうしていいのか分からなくなって、いつも素っ気無い返事しかできなかっけれど、一度ぐらい「ただいま」って言ってみたかった。
でも、それも今となっては叶わぬ願いだ。

あの人はもう、俺に「おかえり」とは言ってくれないのだ。

別れを告げたあの人は、もう俺に微笑むこともないのだろうか。
もう、俺のことなど嫌いになってしまったのだろうか。

胸がギシギシと音を立てて軋む。
負った怪我なんかよりも、胸が痛かった。

 

無意識に、ポケットに入れた手を握りしめる。
しかしいつもと違う感触に、閉じていた目を開いた。

いつもあるものが、そこにはなかった。

ポケットから握った手をだして、そっと開いてみた。
しかしやはりそこには、あるべきものがなかった。
何度か手を握って開くのを繰り返したけれど、やっぱりないものはない。
お守りで、宝物だった、イルカの家のカギ。
イルカの元へ帰ることを許された証だったのに。

また改めて、イルカとの関係が終りを告げたのを実感した。

そうやって任務中でもお構いなしに、イルカを失ってしまったことを一々思い知らされる。
そしてその度に、苦しくてたまらなくなる。

何がいけなかったのだろう。
一体何が、イルカの気持ちを離れさせてしまったのだろうか。
どうすれば、よかったのだろう。
イルカは笑ってくれていたから、上手くいっていると思っていたのに。
そう思ってたのは、俺だけだったようだ。

こんなことになるのなら、遠慮なんてするんじゃなかった。

最近溜め息ばかり吐いて元気のないイルカの為にと、抱きたいのを我慢していたのに。
一緒にいると我慢できそうになくて、真っ暗な自分の家に渋々帰っていたのに。
口を開くと傷付けてしまいそうで、出来るだけ喋らないようにしていたのに。

ああ、でも。

最近イルカは笑っていただろうか。
溜め息を吐いているイルカは、よく見ていた。
どこか哀しそうに、そして何かを諦めたように。

具合が悪いのかと思っていたけれど、それは違ったのだろうか。
そう言えば、イルカが話し掛けてくれることも減っていた。
いつもなら、夕飯を食べながらいろんな話をしてくれていたのに。
もうそんなことも面倒臭くなっていたのだろうか。

いろんなことが思い浮かぶけれど、いくら考えてもそれは想像の域を超えない。

俺は、何も知らない。何も聞かなかったから。
イルカのことで知っているのは、すべてイルカが自主的に与えてくれた情報だけだ。
イルカが何も言ってくれなければ、何も知る事が出来ないのだから、どうしてこうなってしまったのかなんて、分かる訳がない。

どうして何も聞かなかったのだろう。
イルカが元気なさそうにしている時に、ちゃんとどうしたのか聞いておけば、こんなに悩む事はなかったのかもしれない。
ちゃんと理由がわかっていれば、別れずに済んだかも知れない。

だけど、恐かった。
またイルカを傷付けて嫌われるのが恐かったんだ。

イルカは優しくしてくれると言ったけど、また酷い事を口走ってしまったらきっと嫌になると思った。
こんな俺のどこがいいのかも分からなかったし、いい所なんてあるとも思えない。
だからただ、変な事をしないように、呆れられないようにと必死だった。

自分なりに努力したつもりだった。
けれど結局イルカの望むようには出来なかったようだ。
もっと恋愛というものに器用だったらよかったのに。
自分の不器用さが恨めしかった。

照れくさくて名前も呼べない。
好きだとも言えない。
親し気な呼び方をされただけで、泣きそうになって逃げ出してしまう。

付き合っていた時はあまり気にしていなかったことが、今になって悔やまれる。
不器用なのは、嫌と言う程分かっていたけれど、イルカの気持ちに甘え切っていて、イルカなら気にしないだろうと思っていたのだ。
けれど、それは傲慢だった。
与えられるものを甘受しているだけでは、駄目だった。
格好悪くても、情けなくても、恥ずかしくても、ちゃんと自分の気持ちを伝えなければいけなかったのだ。
何も言われなければイルカの気持ちが分からないように、イルカだって俺の気持ちは分からなかっただろう。
イルカなら分かってくれているなんて、やっぱりそれは虫がよすぎる。

俺の努力の方向は、思いっきり間違っていたようだ……。

 

―――ねぇ、アナタはまだ俺のこと、少しでも気に掛けてくれてますか?

別れを告げるイルカの声が、震えていたのを思い出す。
どこか辛そうなその様子に、まだ望みはあるだろうかと、自分の都合のいいように考えてみた。

だって諦められない。
まだ、こんなにも好きで、自分でも呆れるくらいイルカのことばかり考えているのに。

 

樹に預けた背を起こして、脇腹を押さえながらのろのろと立ち上がった。

帰ろう。
無くしたものを取り戻す為に。

俺は恋愛もろくに出来ない獣かもしれないけれど、ちゃんと想いを伝える言葉がある。
みっともなくても、無様でもいい。
不器用なんだから、格好良くなんてできる訳がないのだ。

それでも駄目だったら、また考えよう。
付き合う前だって失敗ばかりだったんだ。
今更また失敗したって、どうだって言うんだ。

手当てする時間も惜しくて、俺は里に向って走り出した。

走りながら考える事はやっぱりイルカのことで。

もう一度、この腕で抱きしめたい。
名前を呼んで、くちづけたい。
好きだって――、好きで仕方ないって伝えたい。
そして、「おかえり」って言ってもらって、「ただいま」って言いたい。

また、微笑んで欲しい。

 

 

ああ、この願いが叶うなら、

 

俺は泣いちゃうんだろうなぁ……。

 

 

 

カカシと別れて二日が過ぎた。
カカシはあの後すぐ上忍の任務に就いたらしく、あれ以来会っていない。

俺は後悔していた。
どうせ別れるなら、言いたい事を全部言ってから別れればよかったと。

あの時はあまりの動揺に、何も考えられなくて別れを切り出したけれど、冷静になってみれば、やっぱりカカシに直接真相を聞くべきだったと思った。
はっきり面と向って身体だけだと言われれば、きっと今の諦め切れない気持ちも整理できただろう。
そして、時間はかかるだろうけれど、吹っ切れたはずだ。

けれど今のままでは、もやもやといつまでたっても考えてしまって、寝る事もままならない。

もう何度目になるか分からない寝返りを打って、俺は枕元の時計を見た。

午前三時。

明日もアカデミーだというのに、睡魔はなかなか訪れない。
カカシと別れてからは毎晩寝不足だった。

もう、カカシに直接聞くしかない。

安眠を得られる方法はそれしか思い付かない。
未練がましいと思われるかもしれないが、それでもいい。
実際未練はたらたらなのだ。

とにかくカカシが任務から帰ったら、本当のことを聞かせてもらおう。

そう心に決めると、気持ちが楽になって眠れそうな気がして来た。
なんだか単純だなあと少し呆れたが、そうでなくては神経がすり減っていくばかりだ。
自分で自分を慰めながら、俺は改めて寝返りで乱れた布団を掛け直し、目を閉じた。

しかし、浅い眠りに身を任せていたのも束の間。
家の外に気配を感じて、反射的に身を起こした。
どうも気配の主は、我が家に用があるらしく、玄関あたりを行ったり来たりしている。
怪しい事この上ない。
一体何者だろうかと、枕の下に隠したクナイを持ち、静かに玄関へと向った。

細心の注意を払い玄関までやって来た俺は、扉にはめ込まれた魚眼レンズをそっと覗き込む。

しかしそこには、誰もいなかった。
ただ玄関脇の照明に照らされた、石畳が見えるだけだ。
それでも注意深く探ると、弱々しい気配が感じられた。
チャクラが乱れている。
もしかしたら、怪我が酷くて病院まで行けそうにないと判断した忍が、助けを求めてやってきたのかもしれない。
こんな夜中だから、遠慮してなかなか呼び鈴を鳴らせなかったのだろう。

俺はそう推理して――でも念のためにとクナイは持ったまま、玄関の鍵を外した。
慎重に扉を開けていくと、すぐに何かに遮られてそれ以上開かなくなった。
その僅かな隙間から、力なく投げ出された足が見える。
けれど油断はできない。
俺は警戒を怠らずに、扉を遮る身体を押し退けながら人が通れるくらいに無理矢理開けて、その隙間から身を乗り出した。

そして、倒れている人物を認識した途端、俺は大声を上げて慌てて外へ飛び出した。

「カカシせんせいっ!」

倒れていたのは、血を流し気を失ったカカシだった。
素早く身体中の怪我の具合を確かめる。
その結果、命に関わる怪我ではないことが分かり一安心した。
気絶しているのは、ここに来るまでにチャクラをほぼ使い切った為だろう。

そんなカカシを抱きかかえて、寝室まで運んだ。
汚れが酷かったので、一旦畳に横たえて、持っていたクナイで服を引き裂き取り去る。
露になった身体を改めて検分して、縫合が必要な肩と脇腹の傷を確認した。
あとはかすり傷程度で、消毒しておけばいい。
手当ての手順を頭の中で素早く組み立てながら、救急箱を押し入れから取り出した。

手当ての途中、痛みの為かカカシが呻いたが、気にせずに進めた。
自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。
不謹慎であったけれども、別れてはじめてあうカカシの意識がなくてよかったと心底思った。
この間に、心の準備ができる。

そんなことを思いながら手当てを終え、包帯だらけになったカカシをベッドに横たえた。
そして一息つこうとしたが、どうも熱が出ているようで、身体中に汗を掻きながら、時折苦しそうに呻き声を発している。

「カカシ先生、薬です」
熱冷ましと痛み止めを飲んでもらおうと、カカシの上半身を支えながら口元に用意したコップを持って行くが、カカシはそれを煩わしそうにはね除けた。
その勢いで手から落ちたコップは、割れはしなかったものの、粉薬を溶かした水が溢れ畳に染みを作った。

唖然とそれを見下ろしながら、相手は病人だと短く息を吐いて、落ちたコップを拾い上げ台所へ向った。
再び水を汲んで寝室へと戻る。

「もう、知りませんよ」
弱っているカカシに、俺は悪くないと言い訳をする。
アナタがちゃんと飲まないのが悪いのだと。

そして言い訳が終わったところで徐にコップの水を口に含み、粉薬を二種類、同じく口に入れた。
眉を寄せて唸るカカシの鼻を摘み、浅く息を繰り返す口に、自分のそれを合わせる。
暴れないように顎を掴み、少しずつ薬を流し込んだ。
咽に当たっている手の側面が、カカシがちゃんと薬を飲み込んでいる事を知らせてくれる。
これなら直に良くなるだろう。
全部飲んでくれたことにほっとして、屈めた身体を起こそうとした。
しかし、どうしても名残惜しくて、重ねた唇を離すのはためらわれた。

もうちょっとだけ。

そう自分に言い聞かせて、半開きになった口に、そっと舌を差し込んだ。
熱の所為で、カカシの口内は熱かった。
これで最後だと、いつもより体温の高い舌を自分のそれで絡め取る。

久しぶりのその感触に、カカシのキスはいつも激しくて、それでいて優しかったことを思い出した。
身体だけなら、キスなんてしないで欲しかった。
そうしたら、勘違いなんてしなかったのに。
何をしても反応のない舌に、心が冷めて行く。
俺は何をやっているのだろう。
こんなことをしたって、どうしようもないのに。
急に虚しくなって、一方的な口付けを終わらせるために、身体を起こした。

しかし、唇がほんの少しだけ離れたところで、その動きが制される。
気がつくとカカシの腕が伸びて来て、離れようとする頭を押さえ込まれてしまっていた。
再び重なる唇に、身体が熱くなる。

どうしたらいいのか分からなくて焦っている内に、カカシの舌が歯列を割って侵入してくる。
その濡れた感触に、瞼をぎゅっと閉じた。
荒々しく口内を掻き回まわされて息も出来ない間、俺はカカシの怪我を負った身体に体重をかけまいと必死だった。
独りよがりなキスとは比べ物にならないくらいの気持ち良さに、身体の力が抜けてく。
もうこれ以上は無理だ、とそう思った時、ようやく息苦しさから解放された。
肩で息をしながら閉じてい目を開けると、カカシがこちらを見ていた。
その視線に、鼓動が早くなる。
しかし、カカシの口から漏れた言葉に、冷水を浴びせられた気がした。

「スキ」

カカシはそう言った。
今まで聞いた事のない言葉を言われて最初に思ったのは、 意識が朦朧としているカカシはきっと誰かと間違えているんだ、ということだった。
ここに来たもの、いつもの癖だろう。

虚しい期待はするなと、頭の中で声がする。

囁かれた言葉は、知らない誰かのもので、決して自分のものではない。
カカシが任務から帰って来る前までは、はっきりと本人の口から真実を聞きたいと思っていたのに、今は決定的な何かを突き付けられるのが恐くて仕方がなかった。
ここで、自分じゃない誰かの名前なんて呼ばれたら、とてもじゃないが耐えられない。
それなのに、目の前の唇から視線を逸らす事ができなかった。

「泣かないで」

発せられた言葉が、誰かの名前ではなかったことに、ゆっくりと息を吐いた。
少し掠れたその声と、頬に当てられた熱い手に誘われるように視線を合わせると、寂し気な瞳とぶつかる。
こんな表情のカカシは見たことがない。
これもまた、誰かのものなのだろうか。

「泣いてません」
そう言った途端に、涙が溢れた。

優しく頬を撫でる指に、胸が締め付けられる。
アナタは誰に優しくしているんだろう。
その口で、一体誰の名前を呼ぶんだろう。

止まることのない涙に、カカシが困ったように笑う。
そんな顔もはじめてだ。

「泣かないで」

鼻先が触れるくらい近くにあるカカシの顔に、拭い切れない涙が落ちた。
まるでカカシが泣いているようだった。

「……アナタは誰を見てるんですか」

この辛い状況を終わらせるために、一番聞きたくない事を聞いた。
その声は、みっともなく震えていた。
いつまでも誤魔化せない。
長引けば長引く程、傷は深くなるばかりだ。

けれどカカシはその質問には答えずに、もう眠いとばかりに瞳を閉じた。

「カカシ先生、答えてくださいっ!」
軽く身体を揺さぶるが、カカシは起きない。
朝日が昇るまでに気持ちを整理して、笑ってカカシと接したいのに。
気にしてないって、平気な振りがしたいのに。

「カカシ先生っ!」

もう一度呼ぶと、カカシがうっすらと目を開けた。

「……イ、ルカ。泣かないで」

うわ言のようにそれだけを言って、カカシは今度こそ眠りに就いた。

 

そして俺はといえば、ただでさえ涙腺が弱くカカシ絡みになるとそれに拍車がかかるのに、泣かないでいられるはずはなかった。
けれど、それはさっきまでの涙とは違う。
しばらくは、思いっきり泣いた。

いつだって俺を振り回すのはカカシの言葉で、情けないやら悔しいやら。
今回の別れの言葉で、少しはカカシも振り回されてくれたのだろうか。
だから、ここに来てくれたのだろうか。
そうだといいな、と意地の悪い事を考えた。

「カカシさん、おかえりなさい」

言い忘れていた言葉を、眠るカカシに言った。
ここに帰って来てくれてありがとう。
また目が覚めたら、もう一度言おう。
そして、もっといろんなことを話し合おう。
カカシには、まだ俺の知らない一面が沢山あるのだ。

 

緊張の糸が切れたのか、急に眠気に襲われた俺はベッドに頭を預け、そのままそこで瞼を閉じた。
それは久しぶりに訪れた安眠だった。

 

 

 

 

 

―――夢を見た。

イルカにキスをして、好きだと言う夢を。
だけど夢の中のイルカは泣いていた。
悲しんでいるということが、痛い程伝わって来た。
何度も「泣かないで」と言った。
普段なら、こんなことは言えないだろう。
夢だと分かっていたから、勇気を出せた。
けれどイルカは、一向に泣き止まなかった。

俺はまた何か失敗したのだろうか。

酷く不安だったけれど、やっぱり俺は「泣かないで」としか言えなかった。

その内に、夢の中だというのに、眠くて仕方がなくなってしまった。
一生懸命抗おうとするのに、睡魔は容赦なく襲って来る。

イルカが何か怒っていて、それでなんとか意識を引き戻した。
そうしたら、まだイルカは泣いていたから、抱きしめてやりたかった。
けれど身体は少しも動いてくれない。
もどかしくて、たまらなかった。

この想いが少しでも伝われば、と名前を呼んだ。
はじめて愛しい人の名前を呼んだ時、名を呼ぶ事の大切さを知った。

イルカの驚いたような顔を最後に、辺は暗闇に包まれた。

自分が寝たのだと分かったけれど、それでも何故かイルカの泣き声は聞こえていた。
今度の泣き声は先程とは違い、悲しんでいるわけではないと分かってほっとした。
そしてしばらくして、鼻をすする音がきこえたかと思うと、イルカの声がした。

「カカシさん、おかえりなさい」

くすぐったいような、泣きたいような気持ちで、「ただいま」と呟いた。

それは言葉にならなかったけれど、今度はちゃんと、アナタの顔を見て言うから。
だから、待っていて―――。

 

 

目覚めてはじめて見たものは、今までで一番の、笑顔だった。

 

 




END