佐渡流人概説

 佐渡の流人第一号は、養老6年(722)乗輿を指斥する事件に座して配流になった
万葉の歌人・穂積朝臣老といわれる。
以後多くの人々が佐渡に流されたが、時の政争に敗れた政治犯や思想犯といった人たちがほとんど。
許されて都に帰ることのできた人もいるが、佐渡で生涯を閉じる人が多かった。
そのうちすすんで佐渡の風土にとけこもうとした人たちもあり、大体が当時の貴族や文化人だった
だけに、さまぎまな都ぶりを島に伝えたと思われ、いまも残る多くの芸能の下地を作ったのはかれら
流人たちだったとも考えられる。

文覚上人
 かつては北面の武士遠藤盛遠。源渡の妻袈裟御前に恋慕。誤って殺害したことを悔い出家した話は有名。
鎌倉幕府に対抗した陰謀に連座して配流。
のち佐渡で没したとも、また対馬に配流されたともいうが不明。真禅寺(畑野町)が
文覚開基と伝えられ、腰掛石もある。

順徳上皇
 鎌倉幕府転覆に失敗した承久の変(1221)で24歳の著さで配流。
在島22年、都に帰ることなく46歳で崩御された。真野御陵や黒木御所跡など、
さすがに遺跡や伝説など数多く残る。

日蓮聖人
 「立正安国論」が鎌倉幕府の怒りにふれ、文永8年(1271)配流。
塚原の三昧堂(根本寺)で「開目抄」を著わして自らの立場を明らかにし、
一谷入道邸(妙照寺)に移されてからは法華経思想を具体化した十界星苓羅を図顛、
「観心本尊抄」を著わして日蓮の主義・思想を結実させた。
この大事の陰には阿仏房・千日尼夫妻(妙宣寺)、国府入道、是日尼夫妻(世尊寺)の
外護の力があった。在島2年5ケ月、文永11年(1275)赦免されて鎌倉に帰る。
着岸の松ケ崎・本行寺(畑野町)から離島出船の渋手(真野町)、真浦(赤泊村)の
霊跡まで、ゆかりの由緒・遺跡・伝説を伝えるところが多い。

京極為兼
 鎌倉後期の歌人。皇位継承問題に関係したところから永仁6年(1298)配流。
5年後に許されて帰京。のち伏見上皇の院宣で「玉葉和歌集」を撰進した。
配所が佐和田町の八幡宮の小堂で、京都召還への神明祈誓をこめて、
あけくれ歌を詠んでいたという。

日野資朝
 正中の変(1324)にその責任を一身に背負って配流。
幽閉7年後斬罪。子の阿新丸が13歳で佐渡に渡り、父の仇の本間三郎を討ちとった話は
「大平記」で有名だ。本間館跡が妙宣寺(真野町)付近で、追手をのがれた時に
隠れたと伝えられる阿若丸の隠れ松がいまも残る。
また阿若丸を守って島からの脱出をはかった山伏大膳坊を祭神としたのが大膳神社(真野町)である。

世阿弥
 「花伝書」で知られる能楽の芸術的大成者。
将軍足利義教のゆえなき怒りのため佐渡に流されたのが永享6年(1434)世阿弥72歳の時。
配流の実情については「金島書」に詳しいが、許されて都へ帰ったかどうかは不明なほど晩年は
不幸だったといえる。涌居の跡が正法寺(金井町)で老木の根もとに腰掛石がある。

小倉実起
 実起の娘が天皇の第一子をもうけながら皇位につけなかったことにさからい、
長男公達、次男李伴と三人が天和元年(1681)に配流。
実起は大納言で学者、公達は歌人で知られ、親子の在島は佐渡の文芸に大いに寄与したといわれる。
2年後に実起、公達とも没。李伴は許されて京に帰った。
親子二人の塞が観音寺(相川町鹿伏)に風化して残っている。