能入門
はじめに 能は「むずかしいもの」 「見てもわか らない」という人が意外に多いと思います。しかし、そういう人たちは、おそらく、ふだん見なれていないとか、日常生活のなかで能に接する機会がない、ということだけにすぎず、だから興味もないといったほうが本当なのではないでしょか。能にはきまった見方などというものは ありません。たしかに能には、多くの型 とか規則のようなものがありますが、考えてみれば、それも演じる側の便宜のためのものであって見るほうにとっては、必ずしも必要なものとは思えないのです。ただ、能は極めて象徴化された演劇といえますから、それをどう受けとめるかは、見る人の自由ですしその人のセンスだと思います。なるほど最初は退屈に感じるかもしれませんが、次第に古典の不思議な寡囲気に引きこまれるに違いないのです。古くさい芸能とか文化財などとは思わないでください。むしろ前衛芸術に接するときのように、何の先入観ももたず、「能の美」を素直に感じとることのほうが大切で、それこそが能の本質にせまる近道で あり、能を身近なものにする第一歩なのだと思います。佐渡へおいでになったら、ぜひ能をご覧になってください。その思いもかけない体験は、昨日のあなたとはちょっと違った世界へと導き心のひだにきっと深く刻まれるに違いありません。そこで、能には決まった見方はないといいましたが、より能を理解いただき、あるいは親しんでいただくための手掛かりとして、このページで少しでもお手伝いでき、お役立ていただければ幸いに思います。 (以下佐渡能入門パンフレット抜粋) |
能の歴史 ■猿楽の能 能は、謡と嚇子と舞によって演ぜられる歌舞劇というべき日本独特の演劇です。 この点だけからいえば、オペラやミュージカルのょうなものといえましょう。 能は、江戸時代までは「猿楽」または「猿楽の能」略して「お能」と呼ばれていました。明治以降は「狂言」をふくめて「能楽」とも呼ばれています。 「謡曲とか「謡」といわれるものは、能の台本で、言葉の部分と声楽の部分があります。また「仕舞」といわれるものは、能の略式演奏ともいうべきもので、嚇子も装束もなしに紋服袴で舞うことをいいます。 では、この猿楽(または申楽)とは一体どういうものだったのでしょうか。 奈良時代の昔、中国の唐から雅楽(舞楽)と散楽が輸入されました。どちらも宮中で行われていましたが、雅楽が正楽としていまでも宮中に伝承されているのに対して、俗楽として扱われた散楽は、奇術や軽業を主とする芸能として民衆の間に広まっていきました。 そして次第に滑稽な物まね芸、さらには寸劇風の滑稽な芸をも演ずるようになっていきます。ここに今日の能や狂言のルーツがみられます。散楽も託ってサルガクとかサルゴウと呼ばれました。 これを演じる猿楽者たちは、神社の神事に仕え、また祭礼を目当てに諸国をめぐり歩いては、猿楽を興業していました。 鎌倉時代には、滑稽な対話劇としての「狂言」の原型ができる一方、まじめな歌舞劇としての「猿楽の能」も形ができはじめます。 ■観阿弥・世阿弥の出現 「能」という名称は、本来、歌舞をともなった演劇的な芸能のことで、猿楽の能、田楽の能、延年の能などとあったものが、次第に猿楽の能が主流を占めるにつれて、能といえば猿楽の能を指すようになっていったものです。 室町時代のちょうどこのころ現れた天才が観阿弥と世阿弥の親子だったといえましょう。 観阿弥は大和猿楽の人なのですが、近江猿楽や、農耕芸能から歌舞劇を演ずるようになった田楽、また物語り風の歌舞を演ずる曲舞とそのリズムなどをとりいれて、世界でもっとも複雑なリズムといわれる能の方向を定めたといわれます。 このころは田楽の人気も相当なものだったのですが、観阿弥・世阿弥の芸は、当時の将軍・足利義満の心を深くとらえ、以後その庇護のもとに能を大成していきます。 世阿弥が観阿弥の理論を書き著わしたものが、あの有名な「風姿花伝(花伝書)」で、 観客に感動をあたえるための美学をくわしく語ったものです。また、年少のころから義満のもとに貴族文化のなかで育った世阿弥は、品位と優雅の情緒の世界「幽玄」の美意識を中心に、詩劇としての能とその理論を完成します。そして多くの伝書を残しますが、これらは日本を代表する美学・芸術論として、いまなお内外から高く評価されています。 義満没後の世阿弥は、将軍義教の弾圧(佐渡流罪)、後継者の早世と、悲劇的な晩年を おくりますが、彼の美学の正しさは、能を何世紀にもわたって生き続けさせたことになります。 ■能様式の完成と継承 世阿弥没後も能役者たちの努力で能は受け継がれ、広く一般に浸透していきました。 そして桃山時代には、能舞台や面、装束なども完成されます。同時に、能を自ら演じて楽しむ素人の集団(手猿楽)も盛んになり能は国民的演劇としての広がりをみせるのです。 ところが徳川時代になると幕府の式楽(正式の芸能)として能の中心は江戸に移ります。それまであった観世・金春・宝生・金剛の四座に、新設の喜多流が幕府公認として体制に組み込まれて、禄も受けることになりました。 このことは、能が創作を離れて古典芸能化していくことであり家元制度による伝承形態ができあがったことにもなります。 このように、能が武家の専有物になったことは、大衆不在という不思議な芸能になったことになりますが、ただ、能から分離した「謡」が町人たちに浸透して流行していたことは、歌舞伎をはじめ文芸や歌舞芸能に及ぼした影響は大きく、江戸文化のなかで特筆すべきことかもしれません。 一方では能は、武士道的稽古によって演出と演技の精度が著しく高まったことも事実でした。そして現在の能の演出形態の完成したのも江戸中期といわれています。 明治維新による幕府の崩壊は、能役者の生活も当然おびやかされます。しかし芸を死守しようとする能役者の努力と、日本にも西欧のオペラのような国劇をと考えた岩倉具視らの明治新貴族の援助などで能は復興しますが、やがて国家の庇護からも離れて、特別なスポンサーもなく、独立独歩で今日まで演じ継がれてきたものです。 |
位渡の能 佐渡は芸能の宝摩といわれますが、とりわけ高度な様式をもつ能が、これほど庶民の生活のなかに息づいている土地柄は珍しいといえます。今でも全島に能舞台が三十三もあり (かつては二百以上)、また農家の人たちが畑仕事に謡を口ずさむ日常は、まさに大町桂月の「鷺や十戸の村の能舞台」と詠んだ句そのものの風景といえます。 ではなぜ佐渡にこんなにも能が浸透しているのでしょうか。 永享六年(一四三四) に、能の創始者ともいえる世阿弥が、流人として佐渡にやってきました。このことは佐渡の人たちにとって、心情的には能を身近なものにしているかもしれませんが、むしろ江戸時代を通じて佐渡一国が、天領(幕府直轄地)であったことのほうが、能と深くかかわっているといえるようです。 慶長九年(一六〇四)に、初代奉行として大久保長安が佐渡にやってきました。 長安自身が能役者出身だったせいもあるのか、奈良から常大夫・杢大夫という二人の能役者をつれてきました。当時、相川の春日神社に、長安が能面を寄進しているところをみると、そこで能が奉納されたと思われるし、奉行所でも日ごろ二人の能が舞われていたとは容易に想像できます。 この二人の能役者は佐渡に土着し、さらに末裔たちが受け継ぎ、佐渡の能は、春日神社をはじめとする神事能として歩み出しました。そして、佐渡に残されている能舞台のほとんどが神社の拝殿と舞台を兼用しているのをみても、佐渡の能が神事能として始まり、村々の鎮守の祭りの場へと広まって行ったことがわかります。 これは佐渡の場合、武士の教養としての能が、いつの間にか庶民へと広がっていったということであり、大和・近江・近畿などを中心に盛んだった猿楽が、次第に地方へと伝えられて、今なお郷土能として古い姿を残しているものや、黒川能のように近代能とは別の伝承をもつものとは、明らかに違っているといえます。 さて、奉行所を中心にした能が、佐渡の庶民の能へと広がりをみせるには、佐渡観世流の遠藤家と佐渡宝生流の本間家の存在があります。とりわけ庶民が演者として能に参加するようになったのは、本間家が宝生産を開いてからといわれます。大久保長安の佐渡赴任から四十年後のことです。 本間家は、現在十人代目当主の英孝氏が能楽界の第一線で活躍中で、佐渡宝生流の家元として知られています。 この本間家は、元禄年間、清房の代に江戸に出て、家元宝生友春の直弟子となり、宝生暢栄の後見となって宝生流でも別格の家柄として過されています。その後帰島して、能の権威となった本間家は、文化・文政期ころから多くの入門者を得て、それぞれの村の神社に能を奉納、民間能の宗家として島中に影響力を及ぼしていったと思われます。そして能を舞うことは、庶民でも男子たるものの嗜みとしての意識も生まれていったのかもしれません。 ともあれ佐渡の能には、日本のどこにも見られない庶民への浸透があり、また子々孫々その芸能を受けついで能王国を築いてきたということは、ほかの伝統芸能と同じように、柔軟性に富んだ佐渡の人たちのたくましい生命力を感じないわけにはいきません。 |
能役者 能を演ずる人を能役者、あるいは明治以降は能楽師ともいいます。 いわば下層階級に属して物まねなどを演ずる猿楽から生まれた能役者の社会的地位は、 当然低かったと思われます。しかし、世阿弥が佐渡に流されたということは、このころにはいわば貴族並の扱いだったことになります。 江戸時代になると、幕府から禄を受けて士分待遇、幕末ころの観世大夫の扶持は二百五十石に過ぎませんでしたが、生活様式では大名並だったといわれます。 このような環境から明治以降もこの特権意識は生きて、いまでもほかの芸能とは一線を画すような誇り高い空気を根強く残しているといえるのかもしれません。 ■役柄と制度 能役者は、それぞれの役が分業になっており、しかも専業であるところが特色です。 たとえば、ワキ方はワキ、笛方は笛だけを専門に一生をかけ、他の役を兼ねたり、代わったりすることはできません。 演技を担当するシテ方・ワキ方・狂言方を「立方」といい、笛方・小鼓方・大鼓方・太鼓方の「嚇子方」を総称して「四ひょうし拍子」ともいいます。また、シテ方に対して、 ワキ方・狂言方・嚇子方を「三役」ということもあります。 「シテ方」 シテ方は能の中心です。能面をかける特権をもち、男女の役はもちろん、神でも鬼でもあらゆる役に扮します。作り物(舞台装置や小道具)の製作もシテ方の責任で行われ、声楽部門の 「地謡」もシテ方から出ます。また助演的な役のツレや子方(子供の役)もシテ方に属します。 「ワキ方」 能面をかけるシテ方にたいし、素顔の男性の役のみに扮します。ワキツレを伴うこともあります。 「嚇子方」 能の器楽部門を担当します。しかし単なる伴奏ではなく、それぞれがシテに匹敵する重要な役を受け持ちます。狂言にも時として嚇子方を必要とする曲があります。 「狂言方」 独立した狂言を演ずるほか、能のアイ(間狂言)として一役を受け持ちます。間狂言には場つなぎ的な解説者の役として登場する場合と、能の進行に直接関係する場合とあります。 |
謡曲 能の脚本を「謡曲」といいます。その文体には候調と雅文調があり、基本的には、候調の部分は会話に用いられ、雅文調は韻文と散文にわかれます。 日本文学者のドナルド・キーンは、謡曲を能の台本としてだけではなく、長い詩として読み直せ、と提唱していますが、秀れた発想として受け止めるべきかもしれません。 ■作者と作品 現在の能が正式の上演曲目としているのは、二百五十曲ほどといわれています。 それらのほとんどは、南北朝から室町末期にかけて、能役者自身の手によって創作されたものです。 能に革命をおこした観阿弥の作品「自然居士」「卒塔婆小町」「通小町」等があり、自由な発想と対話の妙は類がないといわれま残その子の世阿弥には、「高砂」「清経」「実盛」「井筒」「桧垣」「砧」「花筐」「恋重荷」「融」等々、詩劇といっていい数々の名作を残しました。確かに世阿弥作といわれるもの三、四十曲可能性のものを含めるとその倍ほどになるといわれます。 世阿弥系とは全く別の系列に宮増(宇治猿楽系)があり、「小袖曽我」など多くの曽我物、また「鞍馬天狗」などの異色作や 「放下増」など地方色豊かな作品を作ったとされています。 観世信光は、「安宅」「船弁慶」「紅葉狩」「道成寺」など、後の歌舞伎がそのまま継承するような劇的でショー的興味を持った「胡蝶」「遊行柳」のような夢幻能の秀作も残しています。 ほかにも、「正尊」などを書いた観世長俊や、「一角仙人」「初雪」などの金春禅鳳らがいます。 ■曲の構成 能には「狸々」構成の「単式能」のように一場の単純な構成の「単式能」と「烏帽子折」のように二十二場にも変化する「複式能」があります。 この複式能は、何の舞台装置もなしに、セリフだけで場面転換する能独特のスタイルで、今日「夢幻能」と呼ばれるタイプがこれです。そこでは、時間が勝手に停止・逆行・圧縮され、さらに累次元の存在すら自由に舞台に登場させることができるのです。 これに対して「自然居士」や「安宅」のように、現実の人間が現実の時間を再現するものを「現在能」といいます。しかし実際は、前半が現実、後半が亡霊という「藤戸」や 「砧」、また中間的な「葵上」のようなものもあって、もう少し複雑といえます。 ■曲の分類 さて世阿弥は、能の上演の原則として「序破急」をあげていますが、能の番組編成にもこの考えが適用されます。一日五番を演じる「五番立」の場合、脇能と呼ばれる初番目物は、神の祝福を扱い、ゆるやかなテンポの「序」であり、二番・三番・四番目物は「破」の部分で、内容が次第に劇的に高まり、複雑化していきます。「急」の五番目物は、鬼畜物などの動きの激しいものです。 確かに序破急で演ぜられる番組は面白いでしょうが、あまりにも時間がかかりすぎ、 現在ではこの催しはまれで、一または三番の催しが一般的です。 このような五番立は、江戸時代の上演形式からきたものなのですが、逆にいえば、あらゆる能は、この五つに分類されるといってよいでしょう。そして曲の演出概念をつかむ上でも、最良の分類法だろうといわれています。 なお、儀式曲ともいうべき「翁」は、どこにも分類されず、上演される場合は、催しの最初に置かれます。 @初番目物(脇能物) 序にあたるもので神の祝福の能。 「高砂」「老松」「賀茂」「白髭」「西王母」など三十人曲。 物語性が薄いとはいえ、三番目物とともに能の位では高く位置しています。 A二番目物(修羅物) 破の前段にあたり、修羅道に落ちた武人の霊が、救いを求めて現れる能で、 「清経」「敦盛」「八島」「実盛」「巴」など十六曲。 そのほとんどは敗戦の苦を扱い、ロマン的色彩に富んだものです。 B三番目物(鬘物) 女性を主人公(シテ)として、能の理想美「幽玄」の情緒をもっとも多く含み、能の中心といってもよく、最高に位置します。 「井筒」「野宮」「桧垣」「芭蕉」「松風」「熊野」「開寺小町」など三十九曲。 C四番目物(雑能物) 破の後段にあたり、ほかのどの分野にも入らない残りの全てがここに分類されます。 内容・演出ともに変化に富み、上演頻度の高いものばかりです。 「遊行柳」「西行桜」など準鬘物四曲 「雨月」「三輪」など準脇能物入曲 「三井寺」「班女」「弱法師」など狂乱物二十五曲 「花月」など遊狂物三曲 「耶単」「菊慈童」など唐物七曲 「通小町」「善知鳥」など執心物八曲 「道成寺」「綾鼓」など怨霊物八曲 「俊寛」「景清」「鳥追船」など人情物九曲 「安宅」「夜討曽我」など現在物二十曲。 D五番目物(切能物) 急にあたるフィナーレ用の賑やかでテンポの早い、鬼・天狗・妖精などの活躍する能。 「山姥」「鞍馬天狗」「船弁慶」「融」「狸々」「石橋」など五十一曲。 |
昔楽としての謡と嚇子 ■謡 能は、ある面ではオペラやミュージカルのようなものといいましたが、たしかに謡における声楽の要素はきわめて重要です。ただその発声は、洋楽はもちろん他の邦楽とも違った独特なものといえます。 謡には、息を強く張る「ツヨ吟」と、息をなだらかに扱う「ヨワ吟」 の謡い方など、 いろいろな技巧は必要ですが、役柄の男女の別なく、強く太い発声で押し通します。 男性の声や演技でも最高の女性美を表現できるという、能の理念がここにもあるといえます。 ■リズム 器楽部門の嚇子と声楽部門の謡とは切っても切れない関係にあります。そしていずれも 「入拍子」という八つのリズムに支配されています。 この謡のリズムの基本は @「平ノリ」 七五調十二音の文章を、八拍十六音にあてて微妙な変化を生みます。 謡が、物語りの歌、語り物であることから、言葉を重視して音楽的リズムはやや後退する形ですが、私たちが最もよく耳にするのがこの平ノリです。 A「中ノリ」 一指に二字ずつあてるキビキビした躍動的なリズムで、武士の戦いの場面などに謡われます。 B「大ノリ」 語り風の乎ノリに対して、一字一指の音楽性を重視したリズムといってよく、神・鬼の活躍する場面のように、ノリのよいところではたいてい大ノリの謡になっています。 これらのリズムを「拍子ニ合ウ」といいますが、この人拍子からはずれたレシタティーポ風の謡の部分は「拍子二合ワズ」といいます。 嚇子の方も「合ワセ打チ」「合ワセ吹キ」と、拍子に合わずの「アシライ打チ」「アシライ吹キ」があります。 ■楽器 能の楽器は、旋律楽器に笛(能管)、打楽器に小鼓・大鼓・太鼓とあり、演能は一楽器一人の四人編成になります。笛は竹製の横笛で、鋭く不思議な音色を奏でます。囃子のなかで一番リズミカルなのが太鼓ですが、現世を超えた人間以外の役が登場する場面にしか参加しません。小鼓と大鼓は、同じような形はしていますが、扱いや音色は正反対で、この二つの鼓のからみあわせは絶妙といえます。 興味深いことは、鼓が湿度に微妙に影響されることで、小鼓は唾液や息によって革の湿気を常に調整しながら打ちます。大鼓は炭火で二時間も焙じてから調べ緒を蹄め上げ、鋭い衝撃音を出します。それでも時間につれて音が出にくくなるので、演能途中で新しく焙じた大鼓と取り替えるほどです。 一般に打楽器は、謡のリズムや緩急を支配し、役の登・退場を囃し、また、笛とともに序の舞などの舞事を演奏します。 「ヤ」「ハ」「ヨーイ」「イヤ」などの掛け声も特徴的で、間をはかると同時に、気迫の端的な表現といえましょう。重い曲になればなるほど、この掛け声のもつ比重が多くなりますが、また、音のしない空白の間に、さらに深い意味をもたせるのも、能の音楽の特色といえます。なお、謡も囃子も、すべて演奏は暗譜で行われます。そして間違いも許されません。 |
能の演出と演技 ■演出 演能の大綱は、世阿弥によって決められたと言っていいでしょう。何よりも面白くなければならぬという「花」の理論が、世阿弥の説く美学の主軸でしたが、究極的には心の演技・無の表現を追求することでした。ただこの写実から抽象への表現の推移には、長い時の淘汰が必要だったのです。こうして桃山時代になって、ようやく今日の演出の原型が見いだされるといわれています。 江戸時代になって幕府お抱えとして、能は古典芸能の方向をたどりますが、それだけに洗練されたものになり、江戸中期にはほぼ固定したと考えられています。 その後、各流儀によって細部にまで様式化が工夫され慣習的な上演が可能になりました。 このように能には、西欧の演劇に見られるような演出の意識はないといった方がいいようです。それは、各役の各人がその曲のもっている「位」という概念があるためで、演出家不在でも、いつでも最大公約数的なかたちで上演できるからです。 この「位」というのは、曲の文学的内容や主人公の身分、性格、表現技術の難易などによって定められるもので、様式化の強い能に演劇的生命を与えているのが、この「位の意識」といっていいでしょう。 ■演技 能は動く芸術です。その演技の基本は「構え」で、体の重心をおとして四方に気迫を発して立つ強さです。 まずこの不動の姿勢が能の演技の成否を分けるといっていいようです。 次が足の「運び」です。腰の描く軌跡が、つねに舞台の床と平行であろうとする能は、摺り足による運びの美とリズム感を強調します。したがって手首だけで演技するなどということはなく、必ずひじと肩をともなった直線運動か、大きな曲線運動で、踊るのではなく「舞う」のが能なのです。 第三に、能には動き.の「型」があります。全部で二百五十種ほど型があるといわれますが、そのいろいろな型の組み合わせによって種々の表現効果をあげます。 ただ、歌舞伎の「見得をきる」ような停止技法はありません。能の型はつねに流れ、つながりながら、そのリズムが大きな表現として演ぜられます。ですから、シテがじっとうずくまっている「居グセ」のような場合でも、心が舞っているとみます。ここに能の最大の特色があるといえましょう。つまり、その最小限の造形から、見る人は無限のイメージをふくらませることができるからです。 |
能面 お面は七世紀のはじめに、仏教とともに輸入されました。前に述べた伎楽や舞楽に使用する仮面です。当時の人々は絢爛たる外国の文化、先進のファッションとして、とりわけ滑稽な物まねを演ずる伎楽に熱狂したといいます。 伎楽はやがて衰退しますが、仮面の大衆性は、やはり滑稽な物まねから生まれた猿楽の能に受けつがれて、世阿弥のころには、すでに面の使用を前提とする演劇でした。ただこの能面は、人の顔よりぐっと大きい外国の仮面からはなれて、人の顔と同じ大きさをもつ独自の様式に洗練され、抽象化されて、自らの表現をかちえたものになっていました。 したがってこの能面は、単なる仮面ではなく、役者の肉体と同化した能の理念の中心といってよく、能役者の心として大切に扱われます。「メン」とは呼ばず「オモテ」であり、「カブル」とはいわず「カケル」とか「オモテを着る」というのをみてもわかるように、能面のなかに全精神をこめます。 また直面と呼ばれる素顔の役も、自分の顔を能面として扱い、一般の演劇のように メーキャップや顔面表情は用いません。能面をつけるのは、シテ方の特権で、ワキ方が能面をかけることは全くありません。 能面をややうつむかせて、嘆きや決意をあらわす「クモル」、ややあおむかせて喜びの表情をみせる「テラス」、左右を見回したり、風や虫の声を聞いたりする「面ヲツカウ」、鋭角的に激しく動かす「面ヲ切ル」などが基本の技法です。 能面の種類は、基本形が三十から五十、派生面を数えると二百以上といわれています。 @「翁」関係の白式尉・男式尉の類は別格。 A老人の面に庶民の笑尉、神聖味のある小尉、舞を舞う役の舞尉、超人的な悪尉の類。 B女面に若い女の小面・孫次郎・若女・増・近江女。やや老けた女の曲見・深井。 怨霊の面に泥眼、橋姫。死霊の面に痩女。老女の面に姥・老女。 C男面には年若い修行僧の喝食。若い男の面に十六・中将や、若い男神にも流用する耶邦男。荒々しい武士の面に平太。怨霊の面に三日月・怪士。男の死霊の痩男・蛙。 妖精的少年に童子・慈童や狸々。 D異相面に天狗の面の大痺見、閣魔や鬼神の小痺見。陽性の神の面に大飛出・小飛出、竜神の男髭。鬼の面のしかみ、その系列の獅子口。女の神の般若・蛇 E畜類面に野干。 F仏体面に天神・不動。 G一曲の専用面に頼政・弱法師・蝉丸・景清・俊寛・山姥など。 |
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能装束 世阿弥のころの能装束は、そのころの日常の衣装ではなかったかと思われます。 能独特の豪華な唐織りの現れるのは、織物技術の発達と、秀吉など庇護者の好みと財力の影響のもとに、室町末期から桃山時代にかけてのことのようです。現在の装束がきまるのは、やはり江戸中期といわれます。 貴族や武家の装束をそのまま流用したものに、男の役や強い神・鬼などの着る狩衣、貴人の指貰・直衣、男の平服としての素砲、官女の着る緋長袴があります。ごわごわした袴である大口、腰に結んで前に垂らす腰帯、男にも女の役にも用いる長紹は前者のバリエイションのようなものです。 女性の代表的な装束である唐織、ダスターコート風に用いる水衣、金銀の箔で模様を摺り出した着付け用の摺箔、舞を舞う女性専用の舞衣などは、能独特の装束といえます。 このように能面と違って、装束の種類はさほど多くありません。装束の取り合わせや着付けなどで工夫がこらされます。 能には、はきものをいっさい用いません。「能は歩行の芸術」といわれるように、すべて自足袋で足の運びの美しさを強調します。 |
能舞台 初期の能舞台は、社寺の拝殿や神楽殿、あるいは野天が舞台だったことは容易に想像できます。能舞台の最初の形が、奈良の春日神社に残っているといわれますが、それは土を盛り上げた土壇のようなものにすぎません。そして、そのころの演能の面影を残すのが、いまの薪能といえるのでしょう。やがて能のための仮小屋のようなものが作られ、次第にいまの形に近いものになったのが、室町初期といわれます。現存最古の能舞台といわれる京都西本願寺の北能舞台が、徳川家康の造営といわれますから、桃山時代ころには、今日の能舞台の様式が完成していたことがわかります。なお、一つの建物のなかに別の尾根をもった「能楽党」は、明治以降のものです。 能舞台の原型が戸外にあったことを考えると、現在の能舞台は春日神社の風景を摸したものといえるのかもしれません。 例えば、松の並木は椅掛りの松となり、春日明神が降りたという影向の松は、鏡板の松と化し、椅掛りは道中を示すといったように、自然の背景は舞台の上にすべて再現されているように見えます。 さて、総桧造りの能舞台‥には、独自の様式があります。まず京間三間四方の舞台の四隅に柱をに柱を立てて屋根を支えます。「目付柱」は特に重要で、面で視野を狭められた演者の目標になります。 床は弾力が工夫され、床下には足拍子の共鳴装置として数個の甕が配置されます。 本舞台の後方の「後坐」は囃子方と後見の場所です。後見は、演者の装束を直したり、 作り物や小道具の出し入れもその仕事ですが、本来は舞台監督的な立場にあります。 しかも演能中にシテが倒れた時などには、即性に舞い続ける義務があるのですから、能は演者が死ぬ場合さえ考えているといえます。永六輔もいっているように「舞台で死ねば本望」という言葉の原点がここにあるといえます。 橋掛りと二本の竹竿ではねあげる「掲げ慕」を隔てて「鏡の間」があります。 楽屋で粉装を終えたシテが、ここで最後の面をかけ、囃子方は出を前に「お調べ」を演奏します。 能舞台に舞台装置はありません。ただ最小限の道具を使うことがあります。演能のたびごとに竹で作られ、能がすむと解体されるので「作り物」と呼ばれます。 これもあくまでも点景、あるいは空間を指定するためのものであって、ほかの演劇の舞台装置とは全く異質なものです。それは極度に簡素化されていますので、むしろ能面や能装束の美しさを際立たせることにさえなっているといえます。 |
佐渡の能舞台 佐渡には、現在三十三の独立した能舞台と、神社の拝殿と兼用している能舞台が、十九あります。独立した舞台もほとんど神社に付属した形ですから、佐渡の能が、神事能として発展してきたことをよく物語っているといえましょう。これらの舞台は、すべて演能されているわけではありませんが、海の見える舞台や、山を背景にした舞台やら、今風に完全に様式化された能舞台では味わえない面白さがここにはあります。 例えば、標準的な舞台よりやや小さめのものが多いとか、地謡座や椅掛りのない舞台もあるとか、さまぎまです。それでも演能に際しては、本舞台を広く使えるよう工夫したり、不足のものを仮設したりして、上手に使います。そういう素朴な、あるいは土俗的な舞台が少なくないといえるのかもしれません。 また橋掛りのある舞台でも、その椅掛りを板や慕で、前通路と後通路とに仕切って、前通路を普通の橋掛りに使い、後通路を通路専用として使う、いわば複式椅掛りといえる佐渡独特の構造など、興味深いものがあります。 大井部分も、普通の能舞台では人件を張らずに、舟底大井になっていますが、佐渡では大井の張ってある舞台が三分の一ほどあります。そういう舞台では「道成寺」に使う鋳を吊るすために、鋪穴をあけてあります。 ともあれ佐渡の能舞台は、すべてが洗練されたものとは限らず、たんぼの中にぼつんと建っていたり、お寺についている能舞台やらいろいろで、演能の見られない時でも、優雅な舞台めぐりをしてみるのも、佐渡ならではの旅情のひとつかもしれません。 |
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狂言と佐渡の鷺流 狂言は、狂言だけを上演することもあるし、能と能の問にはさまれて行われることもあります。つまり能と狂言を交互に行うことによって、厳粛・幽玄に村して滑稽と朗らかさ、悲劇と喜劇といった、それぞれの特色を印象づけ、しかも気分転換をはかる巧妙な組み合わせといえます。 ■狂言の歴史 滑稽な物まねや軽業などの庶民的な芸能であった猿楽は、やがてまじめな歌舞劇としての能と、滑稽なセリフ劇の狂言とに分離します。世阿弥のころには、狂言はすでに一座のなかに組み込まれて、現在に近い姿だったようです。 このように、発生的にはむしろ能に先行する芸能といえるような狂言も、江戸時代の封建体制のなかでは、身分的にも芸術的にも下位に見られがちでした。狂言が正しく認識されるようになったのは、この大戦後といってよく、現在では能と狂言を含めて「能楽」というように、どちらも同じ比重でその特色を牡かしています。 さて、狂言には、室町から江戸にかけて、大蔵・鷺・和泉の三つの流派がありましたが、明治維新で保護者を失ったことは、能の場合と同じでした。そして明治から大正にかけて三流派とも廃絶しますが、昭和になって大蔵・和泉の二流派が再興されました。そして、もう一つの鷺流は全く滅亡したと見られていたのですが、近年になって山口児と佐渡に、鷺流狂言の芸脱が残されていたことが分かりました。ここにも、芸能の回・佐渡らしい現象として、いまさらながら佐渡の人たちのバイタリティを感じないわけにはいきません。 ■狂言の芸 狂言の演ずる芸は、およそ三つに分類されます。それは、能楽の儀式ともいうべき「翁」の中で受け持つ演技である「三番曳および風流」と、能の進行の中で能の一役を受け持つ「間狂言」。そして独立した筋をもつ「本狂言」の三つです。 ■本狂言の特色 狂言は、世阿弥のころから能と能の間に勤めることを原則として今日におよんでいますが、狂言だけを並べて演ずる「狂言づくし」は今も盛んです。 この本狂言の特色は、庶民性と喜劇性でしょう。とかく笑いは卑俗におちいりやすいものですが、すでに世阿弥によって、上品でなごやかな滑稽さが求められ、能と結びつくことによって、次第に笑いを洗練させ、昇華させてきました。 その笑いを誘う手段としては、伝統芸能の特徴であるめでたさ、同訓巽議の多い日本語を利用した言葉遊び、無邪気な誇張や世の中の矛盾などで、いずれの笑いも明るく大らかなものになっています。 ■狂言面 狂言も面を使うことがありますが、それは演技に際して、神仏・精霊・女性・異常な人物などのように、どうしても素面では表現しにくいものに限られています。従って狂言面は、能面のように多くは必要とはせず、数は三十余種といわれています。 狂言の本質が滑稽味であるように、狂言面の表情も、極めて写実的なおかしみがあります。また、内容や演技がそうであるように、面もまた能面のそれとは全く対照的な要素で作られているといえます。 ■佐渡の鴬流 狂言の鷺流は、江戸初期に京都の狂言一座のなかから、和泉流とともに成立したといわれます。そして能の式楽化にともない、慕府直属の流儀として隆盛をきわめました。しかし明治維新をきっかけに衰退、明治二十八牛に奉几は廃絶し、門弟たちの努力もかなわず、大正末期には中央の狂言界から全く姿を消してしまいます。 佐渡の鷺流は、葉梨瀕内という人が、文政四年(一八二一)江戸へ出て、鷺流宗家に師事して帰郷、佐渡で鷺流を広めたといわれます。一方幕末には、最後の佐渡奉行・鈴木重嶺の用人であった三河静観が、宗家の高弟・逆水五郎兵衝師事して狂言を修め、そのまま佐渡に居着いて鷺流の興隆につくしました。 その後、彼の弟子たちによって受け継がれてきましたが、昭和十九年、最後の名人といわれた天田狂楽の死によって佐渡の鷺流狂は滅びたとされてきました。 ところが近年になって、これとは別に、真野町に鶴間兵蔵という人の弟子たちによって、鷺流の狂言が伝承されていることが分かりました。現在山口県にもその芸脈の残っていることが確認されるだけの希有な芸能として、昭和五十九年には新潟県の無形文化財に指定されました。 以来共野町の鷺流狂言研究会によって伝承活動が意欲的に行われています。 |
おわりに |