相川町の海岸線道路からスカイラインの入口を入る。
川幅の狭い濁川に沿って行くと、赤い瓦屋根の相川郷土博物館がある。
昭和三十一年(一九五六)七月に旧御料局佐渡支庁の建物を使用して開舘された鉱山博物館である。
御料局とは、明治憲法のもとで皇室財産を管理していた官庁のこと。
佐渡金山が徳川幕府から明治政府を経て皇室の財産となったときに、佐渡支庁がおかれた。
博物館の入口には菊の御紋章をかたどる屋根瓦が据えられ、建物は国指定文化財の史跡になっている。
主な展示品は、佐渡小判、鉱山工具、筒の中が螺旋状になっている手回しの排水ポンプが展示され、
実際に運転を試すことができる。
燭台や工具に、当時の工夫と労働の辛苦を思い起こさせる。
坑内労働のようすは「鉱山絵巻」にも詳しく描かれている。
佐渡金山に深く結びついていた相川のようすは、金銀の輸送や文化の交流、祭や遊廓の風俗などにも見ることができる。
江戸時代の相川の街の繁栄が偲ばれる。
平成七年十月、佐渡奉行所跡の発掘調査中に御金蔵の近くの地表から八十センチ下に一七二枚の鉛板が出土した。
鉛一枚の大きさは平均六十五×二十六センチ、中心部の厚さは五センチ、垂さ四十キロであった。
鉛は金銀を精錬するときに用いたものである。
金銀の製分を多く含んだ砂に鉛を加えて加熱をし、金銀と鉛の合金をつくり、表面を冷やして不純物を分離させ、
さらに合金を加熱して鉛を酸化させて、筋金・山吹銀をとる。説明が付けられ展示されている。
この博物館の脇の小高いところに良寛の母の碑が建っている。
良寛の母は、相川町大間町の商人橘屋の娘で、母の故郷の佐渡を
「たらちねの母がかたみと 朝夕に佐渡の島べをうちみつるかも」 と詠んでいる。
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