佐渡人物風土記

柴田収蔵(1820〜1859)
 地理学者。文政3年小木町宿根本生まれ。
江戸に出て蘭学を学ぶが、ペリー釆港の1年前、貧窮の中で世界地図「新訂坤輿略全図」を出版。
パリやロンドンと並んでシユクネギも堂々と載っている。
こうした努力が認められて蕃所調所絵図役となるが、3年後40歳で没。
宿根本の称光寺に墓、佐渡博物館に世界図、海運資料館に資料がある。

司馬凌海(1839〜1879)
 医学者・語学者。天保10年真野町生まれ。
12歳の時、江戸で医学を学び、19歳で師の松本良順と長崎でポンペに学ぶ。
語学の天才で通ぜざる外国語なしといわれ、医学校(東大医学部)教授、
日本最初のドイツ語辞典も出版するが40歳の著さで没。
司馬遼太郎の「胡蝶の夢」に、その奇才ぶりが見事に活写されている。
真野小学校校庭に記念碑がある。

土田麦僊(1887〜1936)
 日本画家。明治20年新穂村生まれ。
16歳で京都智積院の小僧となり、苦労しながら絵を学ぶ。
21歳で文展入選。以後近代洋画の影響濃い作品で画壇に重きをなし、帝国美術院会員になる。
評論家の土田杏村は実弟。新穂小学校に、この天才兄弟の碑が建っている。
佐渡博物館には多くのデッサンが保管されている。

北一輝(1883〜1937)
 思想家。明治16年両津市生まれ。
24歳の時著わした「団体論及び純正社会主義」で有名になるが、発売禁止。
大正9年に書いた「日本改造法案大綱」が、2・26事件の青年将校たちに深い影響を与えたとして
軍法合議で死刑になる。
両津市の膠広寺に墓、若宮八幡神社に弟の政治家・略吉とともに記念碑が建っている。

林不忘 (1900〜1935)
 小説家。明治33年赤泊村徳和生まれ。
「丹下左膳」はあまりにも有名。
ほかに谷譲次の名でメリケンジャツプもの、牧逸馬の名でミステリーや家庭小説を執筆。
一人三役の超人的活躍をしたが35歳の著さで急死した。
本名長谷川海太郎で、家は奉行所金座役人の古い家柄といわれ、赤泊は母の実家で今も生家が残る。
作家の長谷川四郎は実弟。

青野季書 (1890〜1961)
 文芸評論家。明治23年佐和田町沢根生まれ。
「心霊の滅亡」で文壇デビュー。
プロレタリア文学運動の指導的理論家として活躍。
戦後、文芸家協会会長。文芸評論家として初めての芸術院会員となる。
沢根の励風館のわきに、自筆の「ペンの碑」が建っている。

佐々木象堂(1882〜1961)
 地形鋳金作家。明治15年佐和田町生まれ。
蝮型鋳金は一つの鋳型から一つの鋳物を造る古くからの伝統工芸。
晩年、円空仏を造形美の極致と見た彼の作品は、美しさの中にも人間味溢れている。
昭和35年に人間国宝、現御所の屋根飾り「瑞鳥」が知られる。
真野の佐渡歴史伝説館に記念館がある。

 ほかに文芸評論家の矢崎弾は両津市出身。
悲劇の将軍といわれる本間雅晴中将は畑野町の人。
政治家では農相の山本梯二郎、弟の有田八郎は外相で真野町出身。
囲碁九段の梶原武雄は畑野町の人である。