初めての パリ散策5日間
はじめてパリを訪れるにあたって、縮尺1万分の1のパリの市街地図を丸善で買い求め、 5日間に歩くコースを頭に入れ、旅行中に必要と思われるフランス語のフレーズ等を飛行場、ホテル、食事、バス・電車、散 策、買い物別にクリップでとじて 携帯用に百枚程用意しました。
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ここで、館内のレストランで、用意したカードを手にして「Le menu a 15curos, sil vous plait.」と言って定食を注文し、
「Avez-vous un Vins de table ? 」「Une bouteille deau minerale plate,sil vous plait.」などを使って、ワインと炭酸抜き
ミネラル・ウオーターを注文して、おいしくいただき「上階」に上がった。
夕刻6時過ぎから、前日予約しておいた「セーヌ川ディナークルーズ」に乗船するため、タクシーでルーブルよりかなり手前の
集合場所へ向かったが、渋滞していて間に合うかやきもきさせられた。それでも降りるときには、例のカード片手に「Merci! Gardez
la monnaie」と言って端数のテンパーセント程度をチップとして渡しておいた。
2階のフランス絵画の大作は、想像をはるかに超える一辺が15mもある巨大な作品の数々に圧倒され、大変疲れた。
夕刻6時から逆ピラミットの企画コーナーで開催される ”美の解放展” のオープニング・セレモニーにあわせて、ホテルからバスの
24番で(21番はオルセー美術館に行く)ルーブル美術館に来てみると、500人ほどの人が集まっていた。
かねてからパリの美術館めぐりをしたいと思っていたところ、某社のヨーロッパ個人旅行のパリのホテルが、サン・ラ・ザール
駅の近くということで決めました。
ホテルの朝食は、ハム・チーズ・パン・飲みものともそれぞれ数種類あり、果物も数種類籠に盛ってあるなど満足できるもので
した。
朝、ホテルの中で顔が合うと、どこでも誰でも特にエレベーターの中では,必ず挨拶をする習慣は大変気持ちがいい。イタリヤもそう
だったが、日本では失われつつあるようだ。乗り込んできた人も、黙ったまま互いに扉が開くのをじっと待っているあの瞬間、日本で
は気まずいと感じる神経も無くなっているのだろうか反省。
初日は、まずオルセー美術館まで歩くことにした。
”初めての地に慣れるには、自分の足で歩くこと ”これが私のセオリーです。
ホテルからオスマン通りをわたってトロンシェ通りを、マドレーヌ広場からパリで最も広いコンコルド広場まで行き、すぐ右にある
ジュ・ド・ボーム国立ギャラりーをみたあと、オランジェリー美術館はまだ改装中であるので、チュイルリー公 園の向こうに見え
る明日行く予定のルーブル美術館を背にして、コンコルド橋を渡ってオルセー美術館に行った。
パリジェンヌ達は誰もが早足だ。しかし、非常の場合以外は決して走らないようだ。赤信号でも悠然と歩いていく。これは大阪人に
似ているか? いや違う、パリジャン・パリジェンヌ達は、信号機にはあまりこだわらないで、自己責任で渡っているように見える。
うっかり走ったりすると、一斉に振り返り犯罪者と思われるようだ。
しかし、パリの交通事故は、人口は日本の半分で事故件数は同じだと言う。凱旋門の周りは、道が放射状になっていて、13方向
から集中していて、まさに車の大きな渦巻きである。その渦の中から目指す道に入ることは、神業としか思えない。
美術館には何百人か数え切れない長蛇の列だったが、事前に”ART CART"を購入してあったので, 別の入り口から直ぐに入った。
百年前、終着駅として建てられたとは信じられないほど明るい広々した空間は、写真でみるよりもはるかに素晴らしいものだった。
中央通路に彫刻が並べられた「地上階」は、入口左側の展示室にミレーはじめバルビゾン派、マネの「オランピア」などがあり、通路
を隔てた反対側には、モロー、ドガ・アングルの「泉」のほかアカデミー・ロマン・古典派が、この直ぐ上の「中階」に、マチス・
ボナール・ルソーなどの作品があり、心行くまで観賞できた。
「上階」には、マネ・モネ・スーラー・ルノワール・セザンヌ・ロートレック・ゴッホ・ゴーギャンなど、魅力的な作品の数々が並ん
でいて、この日は、このオルセーだけですっかり酔いしれて、予定していたロダン美術館、ドラクロワ美術館等はカットした。
”生演奏とシャンソン”ということで、昔イベットジロー、マリア・カラスの唄を聞いて以来何十年振りであったので期待していたが、
パリ祭、パリの屋根の下、ラ・メールの他聞き慣れない曲が数曲で,ロシヤ民謡、韓国民謡、上を向いて歩こうなど、本場のシャンソン
を期待したものにとっては、期待はずれであった。帰ったらレゴードで懐かしい声を聞くことにしよう。
料理も、チーズ類が多すぎ、もともとごてごてこねまわすフランス料理はあまり好きな方ではなかったが、日本で食べるフランス料理
の方がまだましだと思った。
ただ夜のセーヌ川遊覧と、ライトアップしたエフェル塔は印象的だった。
これで、飛行場からホテルまで、出迎えの車の中から眺めた凱旋門・シャンゼリーゼ大通りを含めて、観光コースその1は終り。
2日目は、昨日の1本東のオペラ座横のオペラ大通りをまっすぐカルーゼル凱旋門とルーブル美術館を目指して歩いた。
30分程で広々としたチュイルリー公園に入ると、左手にコの字型に広がった "美の宮殿” 巨大なルーブル美術館がそびえている。
左側のリシュリュー翼、正面のシュリー翼、右側のドノン翼に分かれていて、それが半地下、1階、2階、3階になっている。
広場の中央にあるガラスのピラミットから入って、エスカレーターで地下の広いホールに下りる。
日本を立つ前にインターネットでルーブル美術館の展示状況を調べて、3階から順に観賞する予定でいたが、参観のコースが決められて
いて、エレベーターも3階までは昇らず、予定していた様に歩けなかった。
イタリア絵画のモナ・リザは、初めて東京でみたときは、食い入るように見入ったが、昨日以来数々の名画をみたあとでは、
呪縛から解き放された様に輝きを感じられず、人だかりの背後から一瞥して通り過ぎた。
随所にキャンバスを立てて、名画を模写している姿が印象的だった。
レストランは1店だけで定食はなく、昨日のオルセー美術館とは違って昼を過ぎても客も4〜5人入っているだけで、料理の待ち時間が
永そうだったので、ピラミット下の広場のサンドイッチなどの軽食ですませた。
午後は、3階の14〜19世紀のフランス絵画ドイツ・オランダ絵画をみて、一旦バスでホテルに戻ることにた。
しばらくして館長、パリー1区長、ルイ13世の子孫とか言う人物と在フランス日本大使館書記官等5名によるテープ・カットによって
開幕し、それぞれの挨拶のあと展示会場になだれこみ、会場は人で埋め尽くされた。
先程のオープニング会場では、茶がふるまわれ、神楽、日本舞踊から現代舞踊、玉すだれ等日本の文化、芸能等が披露されていた。
飛行機で隣り合った可愛い日本女性2人がフランスのボーイ・フレンドと一緒にきてくれて、私の絵の前で5人で写真を撮った。
彼女たちが帰ったあと、私の絵が気に入ったというフランスの女性とも一緒に写真を撮ったりした。同じホテルの出品者には
人込の中で会えなかった。
帰りにホテルの近くの交差点の信号が故障したらしく、警官が大勢でていて、手真似で渡っていいかと聞くと、ウイと言ったので、
渡りだすと”急げ急げ”と後ろから笑いながら叫んだので、”さよなら、オ・ルヴォワール”と振り向いて手を振った。その警官に
親しみを感じた単純!。
クリシー広場を右に曲がり,コーランクール通りを進むと,モンマルトル墓地がある。
墓地の入り口で石碑の位置を示した配置図をもらい、スタンダール、ドガ、ゾラ、ベルリオーズ等の墓を探して故人を偲んだ。
ムーラン・ド・ラ・ギャレッドとラデの風車をみたが、途中のベルリオーズの家とゴッホの家は割愛して、テルトル広場に来た。
広場は思ったより狭く、無名画家の売り絵と似顔絵描きで埋もれていた。顎鬚を生やした品の良い画家が近づいて来たので、写真を
撮らせてもらうと、似顔絵を描かせろといたが、Non merci,Excusez-moi. 丁寧に断ったつもりだったがこれでよかったのか?気持ちは
分かってくれたと思う。
広場で画家達が並べている絵の中で、気に入ったのを1枚買ったり、周りの売店で写真にしたものなどを買ったりした。
広場の横のレストランに入ると、Menuが出されたので、「Je prends ca.」1品づつ指を突いて注文した。
広場の直ぐ東に、白く輝いたビザンチンスタイルの優美なサクレ・クール聖堂がある。
ここからの展望は、右端のエフェル塔から凱旋門、シャンゼリゼ通りからルーブル美術館・オルセー美術館やセーヌ川・
ノートルダム寺院などパリ市内が一望できる。
帰りに直ぐ下の素朴派美術館に入ったが、これは全くのゲテモノでだまされたという感じだった。
気持ちを取り直して、地図を片手に3回も道を聞いて、やっとギュスターヴ・モローの美術館に辿り着いた。
道をたずねるときは、地図を左手に、例のカードを右手にして「Vous pouvez me le montrer sur le plan ? 」と言って通じていない
様なときにはカードを見せるようにした。地元の女性に聞く様にしたせいか、皆んな親切に教えてくれた。なかにはバックから眼鏡を
取り出して教えてくれたりした。
治安が最悪と聞き及んでいたモンマルトルは、上野公園や天王寺公園あたりよも安全な気さえした。ただし、日本からの金持ちの観光
客と思われたら、とことん付いて来て、目的を果たすまで翌日も付回すこともあると言う。
モロー美術館は、大きな収穫だった。見方によっては、ルーブルよりも深い関心を持ったほどだった。
入り口は、ごくありふれたアパルトマンの一室といった感じで、中に入っても入り口は狭く、2階の狭い部屋に故人の残した調度品や
遺品の数々など、日本の観光名所などになっている文人の居室などを思い起こして、いささか気落ちしていたところ、2階・3階に
上がって驚嘆し、感動しました。
そこにあったのは、画家の執念だった。
制作過程が,余すことなく残された50号以上の未完成作品が100点余りと、小品がそれ以上,それにデッサンの数々。
それは、一応描き上げた作品が残されているのとは異って、描きすすめるあとからあとから、作家のなかに次々と浮かんでくる構想と
それらを必死に具現化している姿に!!
その部屋で2時間以上魂を奪われたまま、時の過ぎるの忘れていた。
モローは特に好きな作家でもなかたが、そこにある作家魂・絵に対する執念に感動しました。どこかの国の首相がしばしば
口にする”感動した”ではなく、一人の才人の生涯を賭けた生き様が、そのかずかずの模索した構図の中に、筆の跡に、重ねた色の中に、
如実に生々しく残されているのです。!!
モロー美術館を後にしてからは、近くのショバンの家も割愛して真っ直ぐにホテルに帰り、妻が通販で買い集めていたお湯を注ぐ
だけで食べられる赤飯や五目飯などで腹を満たして、モローの未完成作品の数々を思い起こしながら眠った。
4日目は、昨日とは反対のモンパルナス方面を予定していたので、まずバスの84番でモンパルナス駅まで15分程で来た。
このバスを探すために、サン・ラ・ザール駅前で空車のバスの中で、退屈そうに時間待ちしていた運転手に、窓ガラス越しに用意
した例のカードを見せ(Quel numero de bus pour la MONTPARNASSE ? )ると、美男子のパリジャンがにっこり笑って、ドアーを
開けて”エイティン・フォ”と言って、指で真っ直ぐ行って右へ曲がれと、教えてくれた。
モンパルナスに入ると、大きなマロニエの並木が続き、道路も広くモンマルトルに比べて高級住宅地という感じがする。それでも、
道路中央の植え込みの間で、野菜や果物など食料品の店が出ていて、生活の匂いがした。
モンパルナス駅から歩いて数分で、モンパルナス墓地に行き、ここでも配置図をもらって、サルトル、ボーヴォワール、ボードレール、
モーパッサン、サンサースの墓を探した。モーパッサンはコンクリート塀を隔てた別の26号地にあった。
ここから、リュクサンブール公園まで10分近く歩いた。リュクサンブール公園は大きな泉が中心にあり、幾何学的なフランス庭園
である。
ここから、サン・ミッセル大通りをシテ島に向かって歩いていると、左側に画材店を見つけて絵の具を買い込んだ。
ノートルダム寺院の塔を右に見て、シテ島を越えてセパストポール大通りに入り、ポンビドウー芸術文化センターに入った。
エスカレータで最上階まで上っていく間、眼の前の彼方の丘に、モンマルトルの丘と白い優美なサクレ・クール聖堂はじめ、手前に
オペラ座が、最上階の左手から、シャンゼリーゼ大通りと凱旋門、さらに左にエッフェル塔が眺められた。
センターでは、ピカソ、マチス、カンティンスキー、シャガール、ダリなど現代美術展をみて、予定していたピカソ美術館は割愛
して、ルーブルの書籍売り場をゆっくりみることにした。
ホテルに帰って、買いこんだ本のなかに日本語版でなくフランス語版があるのに気づいて、バスで交換に行った。歩くと片道25分
かかったが、バスなら10分で行った。バスを乗りこなせば、パリの街も短時間で気軽に自由に観光できそうだ。
5日目の最終日は、サン・ラ・ザール駅の1〜4番乗り場から列車でヴェルサユ宮殿へ行った。キップは、自動販売機でも
買えるが扱いが心配だったので、窓口で例のカード「Deux billet pour Versailles,sil vous plait.」片手に買った。
列車の中は向かい合わせの4ボックスで、小型ではあるが座り心地の良いものだった。地下鉄の犯罪の話を念頭において、
一応用心して中央付近の親子ずれの横に座った。
車窓から見える家の屋根は個人主義の国民性からは信じられないほど統一され、パリー市内同様美しい眺めだ。
ベルサユー駅までは30分、宮殿前はマロニエの大木の並木で100mもありそうな道が宮殿の広場に向かって真っ直ぐ伸びていた。
宮殿もコの字型になっていて、一見してどこが入り口かわからないが、予めインタネットで調べてあったので、スムーズに
回ることができた。ルイ13世の小さな狩猟小屋に過ぎなかった館を、ルイ14世が50年掛けてヨーロッパ1の宮殿にし、
1世紀にわたって、政治、文化の中心になったと言う。今は郊外の閑散とした小さな町にすぎない。
この宮廷で贅を尽くしたマリー・アントワネットは、38歳の若さでコンコルド広場で断頭台の露に消えたと言う。
宮廷内は、絵画は特に眼を惹くものはないが、内装はまさに贅を尽くしたものだった。栄華衰勢の極みか。
帰りのフライトの時間が気になったので、早めに切り上げ、ホテルの近くのピザ専門店に入ったが、30程のテーブルをウエイターが
一人で、注文を受け料理を運びレジーまでやっていて、注文を受けに来るまで30分、ピザが出たのが30〜40分、その後
デザートという具合で食事が終わったのが2時間!!パリジェンヌたちは時間など気にしないで会話を楽しんでいた。感服!!
帰りの飛行機の中で、大学でフランス文学を教えているという方と同席し、いばし文学談義を楽しませて頂いた、御礼申し上げます。
最後に、パリは美しい!! パリは知性あふれる貴婦人である!! 直径が9kmと10km余の小さい街であるが、街そのものが、
優れた芸術作品である。そして、莫大な絵画は人類にとって永遠の財産であろう。パリの人は皆んな親切だった!!。