My Room〜 絵を描くことの喜びと苦渋
英語版・スペイン語版
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伊勢志摩の風景等を描き始めてから、はや10年になる。
若い頃に名古屋からこの地にスケッチに来ていて、伊勢志摩の風景とじっくり取り組むことが夢だった。
伊勢志摩の風景と風俗やこの土地の味わいを描こうと、海をベースにした広大な大自然と風土に本格的に取り組み
始めてみると、キャンバスの限られたスペースの中に、伊勢志摩の各地の風景を切り取り人物を描き、伊勢志摩の
茫漠とした空気を捉えることの困難さに直面した。
伊勢志摩の全体像を5〜6年で描き出し、次にヨーロッパの風景に移りたいと言う目論見はみごとに外れ、
未だに描き切れていない。
私にとって絵を描くことの楽しみは、多くの人がそうである様に色彩であり、色彩と色彩との響き合いである。
それだけでよいのであれば抽象画でよい訳だが、加えて物語性と詩情性を持たせたいと少々欲張りなのである。
構図をあれこれ考えているときは、大いに楽しみである。しかし、いまだに道程の半分も来ていない気がして、
いささか焦りを感じている。
同じ構図で2枚の絵を、色彩と色調を変えて同時に描き進めるのも面白い。交互に描き進めるに随って、
一方が良くなって来ると、もう一方が見劣りしてくる。見劣りしていた方を描き進めると、他方が見劣りしてくる。
互いに競い合っている様でなかなか楽しいものである。
しかし、仕上げに近づくにしたがって、思うような絵にならないのが最大の苦痛である。
固有色を基本とするが、自分の気持ちと現地の空気や自分の使いたい色などによって描き進めて行く。
後で色彩を変えたり、描き進むに随って構図も若干変えなければならなくなることもある。
夢中で描いていて、色彩と色彩が響きあい、画面が輝いてきたとき!! 可愛い彼女が目の前でニッコリと笑ってくれた
時のように!! 喜びがこみ上げてくる。
しかし、現実には常にその様になるとは限らない。昨日良い線まで来たはずの画面が、翌朝にはすっかり色あせて見えたりする。
こんな時には、そのまま部屋の隅にしばらく放置することになる。そんな絵が何枚も出来てくるので、
ときどきあれこれ出してみては、描く気になった絵をイーゼルに立てかけてみる。
風景画といっても風景だけでは物足りない場合には、人物を入れることにしている。しかし、その人物は正面でなく
画面の風景と調和する様に背面か側面が多い。黒田清輝の「湖畔」の様な作品が好きである。
この絵はどの位で描けますかとしばしば聞かれるが、1枚に掛かりきりでないこと、常に新しい構図と色彩も使いこなしたいと
欲張っているので、20号程度でも多分1ヶ月前後掛かっていると思う。
地球の永い歴史の中で、無数の生物の中の王者である人間も、その他の生物と同様に限られた時間を生かされている
喜びと歓喜と感動とそして悲哀の様なものを描き出したい。
若いころ独身時代に小説を書いたりしていたが、結局実生活に飲み込まれてしまった。絵の場合は展覧会などの発表の場も多く、
仲間もできやすいが、小説はまったく孤独な作業である。同人誌活動をしても孤独な作業であることに変わりはない。
絵は描き進むに随って成果が如実に現れる。毎日が小さな喜びと明日への期待の連続である。
そして、作品が出来上がれば、その風景が自分のものになる喜びがある。NHKの連どらで南田洋子の台詞 ”人生、生きているだけで
丸儲け”に合わせれば、”絵をかいているだけで幸せ”と言ったところでしょうか。